其の九
ダーコォの姿を見なくなり、二年の歳月が流れた今、玉花は太夫である事に虚しさを感じていた。
嗚呼、もしあの時、矜持を捨て、心の儘に生きていれば良かったというのか。只の女として、愛しい者の腕の中で、何も考えずに、何事にも縛られず、都合の好い夢を見ていれば良かったのだろうか。
「もしや」「もしや」と想い描き続けている内に、現世こそが悪夢だと思う様になり、夢が現か現が夢か判らなくなる。
愛息子の夏飛の存在だけでは癒やしにならず、つい酒や鴉片(阿片)を求めてしまう。
「………大姐、今後はどうなさるおつもりです?」
それでも「大姐」と呼ばれれば、なけなしの矜持を擡げ、自然と背筋が伸びる。
玉花は寝台の上で半身を起こした。
「年季明けも間近。蓄えは無いものの、幸い借銭もあらぬ故、安い公寓にでも移り、夏飛と細々と暮らすわ」
公寓というのは、長屋の様な集合住宅だ。
「…………」
芙蓉は、実もない玉花の言葉に、もどかしそうに唇を嚙む。
強がっている訳ではないだろう。では、大姐から情熱を奪ったのは矢張り、大爺か。
今、この状況の大姐が楼から、胡暗から出してしまえば、瞬く間に落魄し、自暴自棄に陥るだろう。
芙蓉はつと顔を上げ、玉花を見る。
「………大姐、私にその身をお預け下さいませ」
「は? 何を云い出すの」
そんな彼女を、玉花は訝しむ。
「私は、妓女である傍ら、芸妓でもあります故、他の者よりかは、多少なりとも色を付けて頂いておりますので、大姐や詩雨小爺、それから風妹をも支えましょう」
覚悟した力強さで、芙蓉は云った。
詩雨は、夏飛の字である。
「…………」
玉花は暫し、唖然として彼女を見ていたが、軈てころころと笑い出した。
「芙蓉、莫迦な事をお云いでない。貴女の世話になる道義はあらぬ」
「いいえ。大姐から受けました御恩、今こそが返す時かと存じます」
頭を振り、芙蓉は云う。
「覚えがないわ」
玉花は怪訝な顔をした。
「蝶草大姐の事です」
「!」
その名を聞き、玉花は芙蓉を見た。
「蝶草大姐が梅毒で倒れた際も、そして、身罷った際も玉花大姐は、心を尽くして下さったではないですか」
芙蓉は、溢れて来る感情を押し殺し、凛とした姿勢で云う。
「あぁ、そうだったな。芙蓉は蝶草大姐の禿であったな」
玉花は沁々とそう云い、ふと息を吐くと、
「なれど、大姐は私にとって姐太夫、心を尽くすは道義であろう」
微笑み、そう続ける。
「いいえ、それは違います。
否、本来ならばそうなのでしょうが、建前では哀悼の意を表すも、大姐の様に陰日向なく支えて下さる者は皆無でした!」
芙蓉は大きく頭を振って、ついに、溢れる感情に呑まれる儘に言葉を吐いた。
「それはちと、大袈裟ではあるまいか?」
「大袈裟であろうと何であろうと、私は、あの時の御恩を、私は返したいのです!」
身を乗り出してそう云う芙蓉に、玉花は鬼気迫るものを感じた。
「…………」
確か芙蓉の初見世は、三・四年前。いくら芸妓と兼ね役をしていようと、その身はひとつなのだ。付く旦那も高が知れているだろう。
私が蝶草大姐を支えていた時分とは、全く立場も違う。
玉花は芙蓉を見据えて、
「覚悟の上なのね?」
確認する様に訊く。
「はい」
彼女は力強く頷いた。
「そういえば、蝶草大姐が云っていたわね、芙蓉は義理堅いって」
玉花は柔らかく笑い、そう云った。
「否、その様な………」
芙蓉はその言葉に驚き、そして照れ、頬を染める。
「芙蓉の心意は解した。なれど、その申し出は断らせて頂くわ」
表情もその儘に、玉花は云う。
「な、何故に?」
意外な言葉に芙蓉は戸惑った。
「何故? 可笑しな事をお云いだね」
玉花はふふと笑い、
「私はもう太夫ではないのよ。それに、表に出されない今、月夜楼の妓女ですらなくなったわ。借銭もないのだから、楼に留まる理由もない。そうでしょう?」
そう続けた。
「ですが、ですが……っ!」
芙蓉はその先の言葉を捜すが、見付からず、唇を噛んだ。
「ではせめて、風妹を支えてやっては呉れまいか?」
そんな彼女を見詰め、玉花はそう頼む。
「……………」
もうこれ以上、何を云ったとて太夫の意志が変わらないのだと、芙蓉は悟る。
思えば蝶草大姐も強い女であった。
芙蓉はふと笑い、
「矢張り、蝶草大姐と似ておられますね」
そう云った。
「そうかしら?」
玉花は嬉しそうに返す。
「………大姐、せめてもの我が儘を聞き入れて下さるのならば、胡暗からは出て行かないで頂きたい。さすれば、何時でも会いに行かれます故」
跪き、芙蓉は懇願した。
「……………」
玉花は色を正し、そんな彼女を見る。
本音を云えば、胡暗からも解き放たれたい。
楼に居る限りは表に出されないのだから、馴染みの旦那と見える事もないだろう。だが、胡暗に住まえば遭遇してしまう可能性も高いのだ。それ故に、年季が明け、晴れて月夜楼を出た後は都ではないと、玉花は常々考えていたのだ。
「………分かったわ」
懇願する芙蓉の姿に、玉花はついぞ心を動かされ、笑みを向けるのであった。




