其の七十九
王陸とは茶房で別れ、芙蓉は少し時間差を作ってから妓楼へ戻る事とする。
月夜楼へ戻ると、房間用人の杭宙が人待ち顔で佇んでいた。
そして、芙蓉の姿に気付くと、歩みを寄せて来た。
「杭殿、何か用でも?」
彼女は少し身構えながら、側に来た杭宙に尋ねる。
「えぇ。太夫が姐姐と話したいと、御待ちになられています」
杭宙は、愛想好く笑ったつもりだが、口角が僅かに上がっただけで、その笑みは不敵であり、見る者に不快さを与えさせるものだった。
「そう、分かったわ」
その事に関して芙蓉は何も云わず、そう返答をすると、早々にこの場を去って太夫の房間へ向かう。
「…………太夫、芙蓉です」
「お入り」
雪梨太夫に迎えられ、芙蓉は房間の扉を開けて入った。
雪梨は化粧台の前で、新造の梅花に化粧を施されている。
入って来た芙蓉を、梅花は横目で一瞥するだけで何も云わなかった。
「済まぬが、暫し待ちや」
雪梨は鏡に映る芙蓉を見て、そう声を掛ける。
「構いませぬ」
芙蓉はそう返し、房間の奥、対面する位置に作られている窓から外界を眺めた。
ここは三階であり、空がよく望める。
陽が傾き始めており、影を長く伸ばしていた。
そろそろ花柳街が目を覚ます刻。
「…………梅花はもう、刻限であろう。下がりおれ」
雪梨の言葉に、芙蓉は我に返る。
「太夫、失礼致します」
梅花は雪梨に万福の礼をし、扉付近に居る芙蓉の横を通る際、恨めしい視線を送ってから房間を出て行った。
そんな彼女に、芙蓉は思わず苦笑してしまう。
その芙蓉の様子を見て、雪梨が口を開く。
「風妹もそうだが、あれも素直過ぎるの。少しは、同齢の王陸を見習わぬといけないのう」
雪梨の口からその様な言葉が出るとは思わず、芙蓉はまじまじと彼女を見た。
否、雪梨の云う事も尤もなのだ。
新造とはいえ、妓女である。宴席にも出れば、客の前にも姿を見せるのだから、いくら対立している相手とはいえ、易々と心を見せるべきではない。
「御手厳しい事で」
芙蓉はふふと笑う。
「軽口は扠置き」
雪梨はそう仕切り直し、化粧台から離れると円卓へ移った。
「本題に入りましょう」
その言葉に、芙蓉も円卓に着き、雪梨と対面する。
「其方を呼んだのは他でもない。率直に訊くが、小爺は今、楼には居らぬのだろう?」
「はい。その通りです」
雪梨の問いに芙蓉は、何の迷いもなく即答した。
彼女が余りにもすんなりと答えたので、雪梨は面喰らった。
「そ、そう………… それで、何処へやったのだ?」
気を取り直す様に身を乗り出し、雪梨は続けて尋ねる。
「それは、申せませぬ」
芙蓉はきっぱりと云った。
「何故に?」
怪訝そうに雪梨は彼女を見る。
「秘め事は、例え味方であれ、明かせませぬ。何の口から漏れるとも、知れませぬ故」
さらりと云う芙蓉。
「なれば、楼主様に尋ねられたら、何と答えるつもりかえ?」
僅かに眉を顰め、雪梨は訊いた。
「小雨が自ら出て行ったと申し、未だ行方が知れぬと、申し上げるつもりにて」
芙蓉は、これまたさらりと答える。
行方先はともかく、夏飛が自ら楼を出た事は真実だ。
「ふ。なれど、楼主様がそれで納得するやらの。現に、王陸を呼び、何やらふたりして話していたそうじゃ」
そう云った雪梨の言葉を聞き、芙蓉は先刻の茶房での、王陸とのやり取りを思い出す。
この月夜楼の人間は、半数以上が太夫側だ。しかも、小性である王陸を良く想っていない者も多数。ならば、彼の行動に目を光らせる者が居るのも頷ける。
「それは、気になりますね」
芙蓉は、態と不審そうに眉間に皺を寄せて見せ、しれっとそう返した。
「今後、我らも戒厳するが、芙蓉、老婆心ながら其方も心しいや」
「はい。心に刻みます」
雪梨の注意に、芙蓉は素直に頷いた。
その後、楼主に呼ばれた芙蓉は、雪梨へ伝えた通りの返答を述べて押し切ると、夏飛を捜す事を認められた。
これで公然として動き易くなり、行動範囲の幅も広がった事は有難い。
胡暗よりも西の町・安曇は、震源地とされる福林省に比較的近い分、一部の石造り以外、建物倒壊も甚だしい程だ。
それでも住人達は、瓦礫の中から使える物を拾っては小屋を建て、逞しく生きていた。
中でも早々に、酒と食事を提供する小屋も現れ、客の多くは軍人ではあるが、中々に毎夜賑わい、人々に活力をも提供する。
そんな酒場の一角を陣取っていたのは、八雲軍第三部隊の江謙と岳章であった。
本日の任務が早くに終了した事もあり、開店と同時に来店をし、もうそこそこに出来上がっている。
震災から十日しか経っていないのだから、任務が終了したとはいえ、他にも作業があるだろうに、近頃ではこうした若い下級軍人の姿も珍しくはない。
彼らも例外ではなく、酒を酌み交わしながら、愚痴を肴に呑むのである。
愚痴は今日の出来事から始まり、同僚や上官に至り、そして、先日の診所での出来事にまで及ぶ。
「そうだ! あの女人! あの女人が居なければだな!!」
当時を思い出し、興奮気味に卓を叩きながら、江謙は怒鳴った。
その余りの雰囲気に、店内は静まり、彼らに視線が向けられる。
だがふたりは構わず、自分達の世界に浸っていた。
江謙と岳章へ向けられた視線の中には、片腕を失した男の姿もあったのである。




