其の七十八
震災により胡暗の一部も打撃を受けたが、妓楼等が連なる本通りには、幸いにも大きい被害は及ばなかった。
しかし、この緊急事態の為、漸く戻って来ていた賑わいもなくなり、不景気この上なく皆が窮していた。
それは、胡暗一の妓楼と謳われている、月夜楼も例外ではない。故、金に化けるのならば、何でもするのが世の常だ。
例えそれが、『人身売買』だろうとも。それが社会の道理であり、表立って非難の声を上げる者は皆無である。
楼主・陳茂叔の房間を出た王陸は、無表情の中に鬼の形相を隠し、芙蓉の房間へと廊下を進んだ。
時間的に湯屋へ行っている可能性も高いだろう。それならそれで好都合だ、風香の耳には入れたくはない話だから。
房間を訪ねると、風香が応対をし、予想通り芙蓉は湯屋へ行っていると云う。
「で? 姐姐に何用なの?」
当然、風香は不審がる。
「楼主様の命だ、時間が惜しい」
王陸はそう返し、踵を返そうとするが、風香に腕を掴まれた。
「私は除け者というのか?」
「………そうだ」
暫し間を置いた後、王陸はばっさりと切り捨てる様に云い放つ。
「っ!」
彼のその言葉を耳にした瞬時、風香は掴んでいた腕を乱暴に放すと、その勢いの儘に王陸の胸を叩いて睨め付ける。
何か云いたげな風香を横目で捕え、今度こそ王陸は踵を返した。
湯屋は胡暗に三ケ所在り、内一ヶ所は本通りの先に在って、主に妓女達が利用している。
王陸は、そこへ向かう途中で芙蓉を捕まえ、近くの茶房へと誘う。
怪訝に想いながらも、芙蓉は彼の誘いに応じた。
常時ならば賑わっている茶房だが、今は客の姿もまばらであり、居る客も皆、心做しか疲れ切って見えた。
ふたりは、奥の温突へ上がらさせて貰った。
「…………何かあったのだな?」
給仕が茶を運んで来て行ってしまってから、芙蓉が口火を切る。
王陸は頷いた。
「楼主様が事を急いでおります。就きましては、小雨の姿を捜しておいでです」
「そうか。ついにだな」
芙蓉はそう返し、茶をゆっくりと啜り、
「それで? 王陸、其方はどう対応したの?」
視線を上げ、訊いた。
「自分は知らぬ存ぜぬと通しましたが、当然納得をしておられぬ様子。ならば、姐姐に伺って参ります。と」
そう答え、王陸も茶を口に含む。
「そう、分かったわ」
芙蓉は僅かに眉を寄せた。
「あ、それからもうひとつ」
ふと気付き、王陸が口を開く。
「何ぞ?」
「風香の事ですが、多分、御機嫌斜めかと存じますので、宥めてあげて頂きたく」
「また、其方が何か云うたのだな?」
「何、いつもの事で御座居ましょう」
しれっと返す王陸を見て、芙蓉は思わず苦笑をする。
「あい、分かりした」
紫微城後宮の外回廊。
普段は人影のないここに、ふたつの影があった。
太子妃侍女の戚雉と鐘粋宮付宦官の張洵であり、診所へ様子を見に行った紀祥からの報告の為に人目を忍んでの事だ。
報告を受けた戚雉の顔色は見る見る変わり、腹立だし気に躰を僅かに震わせる。
「愚か者ですか!? 騒ぎを起こすなんて!」
戚雉は声を抑えるも、怒気を隠す事なくそう云った。
「えぇ、えぇ、御怒りは御尤もで御座居ます」
張洵はおろおろしながら彼女を宥める。
宥められ、戚雉は何度か肩で息をし、どうにか気持ちを落ち着かせると、
「ですが………… 報告の内容を鑑みれば、その診所に件の女人が在居していると見て、間違いなさそうですね」
両手で頬を挟み、思索に耽った。
「如何なさいましょうか?」
恐る恐る張洵は尋ねる。
「………………」
その白花らしき女人が、そこで働いているのか、はたまた患者として居るのかは判らないが、確実な拠点を知ったのは大きい一歩だわ。
でも、今ではない。今ではないけれど、近い内には事に及べるわね。
「時を待ちましょう」
暫し考えてから、戚雉は張洵を見てそう告げた。
このふたりの様子を伺う者があった。
春琴だ。
彼はたまたま通り掛かり、「診所」と「女人」の単語を耳にして足を止めた。
壁を一枚隔てている為、誰なのかは見えないが、声の感じからして、女人の方は戚雉だろうか。
ならば、彼らが話しているのは、件の診所の白花だろうか。
近頃は挿してはいないが、戚雉が南天の簪を所有している事を知っている。
果たして彼らは、何をするつもりなのだろう。
人々の様々な思惑が反映する様に、空が夕日で深紅に染まり、禍々しささえ感じさせるのだった………………




