其の七十七
「…………あぁ、そうか」
王陸が立ち去った後、独りで遊んでいる夏飛をぼんやり眺めていた玉花が、そうぽつりと呟いた。
「王陸は、あの事を訊いていたのだな」
「媽?」
玉花の独り言に、夏飛がふと顔を上げて、不安気に母を見る。
「気にするでない」
玉花はそう返し、ふと笑んだ。
そして両手を伸ばすと、夏飛の顔を挟む。
「時に夏飛、いつ迄その様な男孩儿の装いをしておるのか?」
「え………?」
母の言葉に、夏飛の表情が翳った。
「私の前では自然体で居れ、夏飛は私の可愛い女孩儿なのだから」
愛おしそうに顔を近付ける玉花に、夏飛は怯えた。
「媽。僕は、男孩儿だよ」そう云い返したかったけれど、言葉が喉に引っ掛かって出て来ない。
「本当に、お前の男孩儿姿は、あの方に似ておるな」
ぽつりとそう云い、淋しそうに笑むと、玉花は夏飛の頬から手を離した。
その母の様子を見て、夏飛の心に黒い陰が落ちる。
自身が出て行った後に、母子がその様なやり取りをしていたとは露知らぬ王陸は、あの後、林清源から数日前の出来事、八雲軍が訪れた時の話を、簡単ではあるが聞けた。
林の言葉通りならば、玉花の症状は可也恢復していると云える。
しかし、王陸が懸念する所は、玉花と江謙の諍い事であった。
江謙の執念深さは、当然、王陸も熟知している。
その執念深さ故、何れか玉花の正体に辿り着くだろう。それは確かに、子絽が告げる様に用心せねばならぬだろう。
「……………」
それに、そう、件の役人だ。
役人の様な装いではあったが、あの洗練された動作は、もしや官吏ではなかっただろうか。
例え、誠に官吏だとして、何故大姐と面会したがったのか? 役人が見舞給付金不正をした事と、何か関係があるという事か? 否、官吏の耳に入るという事は、皇太子の耳にも届くという事だ。なれば、それは有り得ぬだろう。
考えれば考える程に煮詰まる。
「王陸、ここに居たのか」
縁側で中庭を眺めつつ思い悩んでいる彼に、声を掛ける者があった。
「これは、浪殿」
王陸は振り返って声の主を見ると、拱手の礼を以て挨拶をする。
仏頂面で立っているのは、青年用人の浪基だ。
「楼主様が捜していたぞ」
面倒臭そうに彼は云う。
「左様でしたか、分かりました」
王陸がそう返し、会釈をして立ち去ろうとするのを、浪基は呼び止めた。
「まだ何か?」
足を止め、再度振り返る王陸。
「また、診所へ行っていたのか? しかも、こんな時に」
「……………」
王陸は口を開き掛けたが思い止まり、そして、ふと口角を上げる。
「浪殿、案じて下さり、痛み入ります」
再度拱手の礼をして、王陸は楼主の房間へと廊下を進んで行った。
その後ろ姿を、浪基は苦々しく見送ったのである。
廊下を進んでいると、正面から芙蓉が近付いて来、ふたりは同時に互いの存在に気付く。
芙蓉は王陸の前で足を止めると、片膝を軽く折り、万福の礼で挨拶をした。
王陸もまた、拱手の礼で返す。
「…………塩梅は、どうであろうか?」
暫し彼を見詰めてから、芙蓉は言葉を選んでそう尋ねた。
その言葉は、玉花に対してのものだと、王陸は直感した。
「御心配には及びませぬ」
故に、そう答える。
「そうか。その様子ならば、大事ないのだな」
芙蓉は愁眉を開き、表情を和らげた。
「はい」
王陸は頷き、改めて彼女へ視線を向けると、
「姐姐、私は所用が御座居ますれば、これにて失礼致します」
再度、拱手の礼をする。
「あい、分かった。引き止めて済まないの」
芙蓉は頷き、再び歩みを進める王陸を見送った。
月夜楼々主である陳茂叔は、渋い顔付きで王陸を迎えた。
楼主の房間は二間になっており、表間は客房とされ、西洋風の家具が置かれていた。
王陸は何時まで経っても、この客房に馴れず、落ち着かない。
勧められる儘、黒い革張りの長椅子へ腰を下ろす。
「単刀直入に訊くが……… 王陸、其方、近頃小雨を見掛けたかね?」
彼が着席するのを待ってから、楼主は口を開いた。
「!」
あぁ、ついに来たか。と思うも、王陸は無表情の儘で頭を振る。
「そう云われてみれば、見ておりませぬ」
「矢張りそうか」
「楼主様。もしや、小雨を黒牡丹か龍陽へやる御つもりなので?」
更に苦虫を噛み潰した様な顔となる楼主を見て、王陸はさらりとそう尋ねた。
「……………」
楼主は答えず、無言の儘で王陸を見る。しかしその顔は「そうだ」と物語っていた。
黒牡丹は京劇院であり、龍陽は男倡楼の総称だ。
「ならば、芙蓉姐姐に御伺い致しましょう」
胡暗に軍人の姿が戻って来たとはいえ、以前の様な賑わいとは比べものにもならない。それに加えての大震災だ、妓楼に限らず、何処も運営は逼迫している有様なのだ。そうなれば、陳茂叔でなくともそうするであろう。
小性として、その内情は熟知しているのだった。




