其の七十六
子絽からの文により、林清源の診所で玉花が軍人の江謙と対面した事を知り、王陸は暇を見付けて診所へ訪れた。
その時の状況を尋ねる筈が、逆に林から意外な報告を受ける。
それは、震災が発生した日から、玉花の下に夏飛が置かれたという事。
江謙の件も気になる所だが、余り長居も出来ず、また林も多忙である事から、彼は玉花達の様子を見るだけに留める。
「大姐、小雨も、御息災で何よりです」
「おや、来たのね」
春の陽射しの中、玉花は柔らかく微笑み、彼を迎えた。
夏飛を見れば、卓上に幾つかの丸くて平たい、親指程の大きさの玉を散りばめ、それを指で弾いて遊んでいた。
勧められる儘に椅子へ腰を下ろすと、王陸は改めて玉花へ視線を向ける。
「大姐、震災の他に、何か身の回りで変わった事は御ありではありませぬか?」
その問いに玉花は暫し考えるも、軈て首を振る。
「いいえ、何もありませぬな」
「!?」
彼女の答えに王陸は訝しむが、それも一瞬の事であり、直ぐに平静を装う。
「………………」
否、江謙は常連とはいえ、太夫であった大姐と顔を合わせる機会は数える程であろうから、彼を覚えていなくとも頷けよう。
だが、子絽が態々文で『用心』する様にと警鐘を鳴らしたのだ、何か良くない事態に向かう様な出来事が起ったのは確かな筈だ。
「…………誠に?」
「ええ」
笑みながら頷く玉花の表情に、何の翳りもない。
その様子、彼女が嘘を吐いているとも思えなかった。
大姐にとっては、然程の出来事でもなく、取るに足らぬというのだろうか。
「………………」
今、医生から詳細が聞けぬもどかしさ。
「左様でありますか」
王陸はそう云うと、立ち上がる。
「あら。席の暖まる暇もない様であるの」
そんな彼を見上げ、玉花は呆れた風に笑う。
「慌ただしくて申し訳ありませぬ。
なれど、御二方に御変わりなく、安堵致しました」
拱手の礼で云い、王陸はちらりと夏飛を見た。
目が合った。
逸らさず、じっと見て来る夏飛の瞳には、不安も安心もなく恐れも安堵もなく、喜も怒も哀も楽もなく、唯、力強い光りが宿っている。
知らずに身に着けた、自己防衛なのだろう。
王陸は僅かに口角を上げ、背を向けると病房を後にした。
裏口へ向けて廊下を進んでいると、何やら人の云い争う声が聞こえて来た。
何を云っているのかは聞き取れないが、声は診察室から飛んで来る。
「こんな時に何だっ!」
「見舞いの言葉もなく、突然女人を出せとはよ!」
「お前ら役人は、本当に俺らの事を莫迦にしくさってるな!」
「い、いや私は、只、その女人の有無を…………」
近付くに連れ、言葉がはっきりとする。
「役人」と聞き、王陸の顔色がさっと変わった。
震災前に子絽からの文で、役人が玉花の行方を追っている事を知らされていたから、ついにその手がここに迄及んだのかと、歯噛みをする思いだ。
「軍に楯突いたって理由付けて、姑娘を引っ張るつもりだろう!?」
「この混乱時だ! 誰もが殺気立って当然だろうが!」
収拾が付かぬ程の興奮状態に、王陸は診察室へ顔を出し、近くに居る、困惑顔の林へ声を掛けた。
「何事ですか?」
「おぉ王陸、まだ帰っておらなんだか」
彼の存在に、林は心做しかほっとする。
「あの役人は?」
「それがな、姑娘の事を何処で耳にしたのか、一目会わせて欲しいと云うのだよ」
林の言葉を聞いた王陸は、改めて役人へ視線を向けた。
まだ二十代であろう若い役人は、喧嘩腰の民達を前にしてたじたじであり、普段の偉ぶった姿も何処へやらだ。
王陸はひとつ息を吐くと、診察室へ足を踏み入れた。
「御鎮まりを!」
そして叫び、注意をこちらに向けさせる。
更に一歩進み、役人と視線を合わせると、
「話しは少し耳に致しました。貴方は、どの様な御用件で、その方と会われる御つもりでしょうか?」
そう尋ねる。
「そんな仰々しいものではない。只、尋ね人が、こちらに在居している女人かどうか確認するだけである」
顔を引き攣らせて、役人は答えた。
「その方と貴方の関係は? また、如何なる理由で捜しておられるのでしょうか?」
「いや、それは……………」
役人・紀祥は言葉を濁す。
まさか「後宮の侍女が捜しています」とも、云えなかろう。
ここで口籠ってしまった為、またしても不穏な空気が流れ始める。
王陸は再度溜め息を吐き、他の者が何かを云う前に口を開く。
「大爺、理由も述べられぬ方に、彼の者を会わせてられませぬし、会わせるつもりも御座居ませぬ。早々に御帰り下さいませ。然もなければ、暴徒と化しますよ」
凄むでもなく、平然と云って退けた。
それでも紀祥は、「暴徒」という言葉が利いたのか、蒼褪め、そそくさと診所を去った。
「結局、何だったんだ?」
「やれやれ、お上の考えなんざ、さっぱりだ」
役人の姿がなくなると、また賑やかに喋り始める。
「王陸…………」
懸念顔で、林がそっと彼の名を呼んだ。
「御心配には及びませぬ、ここまで騒ぎを起こしたのです、暫くは下手な動きも出来ますまい」
王陸は、ふと表情を和らげてそう云った。
そして、視線を人々へ向ける。
それにしても、あの者は、本当に役人だったのだろうか? 本当に役人だとして、何の為に大姐と面会しようとしたのか?
「お上の考えなんざ、さっぱりだ」正しく、その通りだ。
明けましておめでとうございます
本年もどうぞ、御引き立ての程を宜しくお願い申し上げます。




