其の七十五
震災が発生してから一週間が経った。
皇太子である耀舜は五鬼山へ視察に赴いた儘、皇城は元より、花京の地にすら姿を見せていなかった。
久しく、侍寝として招喚されずとも、毎朝の日課である皇后陛下と嬪殿下への挨拶は必ず、皇太子と太子妃は共に行っていたが故、耀舜不在の日々は何とも云えぬ寂しさが募る。
青尹太子妃は決して、弱音を口にしない。それが余計に、侍女の戚雉をやきもきさせるのである。
いくら、春宮太監である春琴が皇太子の代理として側に居ようとも、その感情は変わらなかった。
そんな折、鐘粋宮付宦官のひとり、張洵から報告が届いた。
その内容は、場末の診所に気の強い女人が居り、どうも元妓女ではなかろうか。というものだ。
「それは、噂の類い? それとも、実際に目撃してのものですか?」
人気のない回廊にて、戚雉は疑り深くもそう訊いた。
「酒場で酔った軍人、推量するに、八雲軍であろう者達が零しているのを、居合わせた紀祥が耳にしたとの事にて」
張洵は返す。
彼の云う「紀祥」とは、後宮に出入りしている商人等の掛け渡しをする官人であり、懐柔され、胡暗の裏路地に在る、典当舖へ姿を見せた者だ。
「……………」
その話しが誠ならば、その女人、簪の女人ではないだろうか。
場末とはいえ、帝都とは目と鼻の先、それがどうにも気に掛かる……………
震災から数日後、月夜楼の廊下で王陸は、未だ稚さが残る新入りの用人に声を掛けられた。
「何か?」と尋ねる王陸に、用人は恐ず恐ずと結び文を差し出す。
「先刻、匠人の方から、大哥へと預かりました」
怪訝に思いながらも王陸は、それを受け取る。
「!」
そして、はっと気付いた。
もしやその匠人は、辻の羅宇屋であろうか…………
王陸は礼を云い、用人が去ってしまってから文を開いた。
文面の筆跡を観て、矢張りそうかと確信する。
文は、子絽からであった。
『近し会いたい。という要望には応じられず済まない。
所用で暫し胡暗を離れねばならぬ。次に会えるのは何時になるかも分からぬ。
それから、ひとつ報告を致す。林医生の診所に、江謙が現れ、姐さんと対面したと耳にした。江謙は楼の常連と認知している故、呉々も用心の程を』
文面に視線を走らせて、王陸は顔色を変えた。
『江謙』勿論知っている。
歯軋りをする。
それから二日後。
漸く暇を見付けて、彼は診所を訪れた。
「…………は? 今、何と仰いました?」
自身が訪問した旨を伝えるよりも先に、口を開いた林の言葉の内容に、王陸は目を丸める。
「いやいや、お主の気持ちも理解するがな。しかし、あの状況下で、小雨を放置する訳にもいかぬし………… 私も迷ったのだが、今の姑娘になら任せられると踏んだのだよ」
ばつが悪そうに、林はそう云った。
「………………」
王陸は唖然として林の言葉を聞いていたが、次の瞬間はっと我に返り、
「して、大姐の反応は?」
そう訊いた。
「うむ。母親らしい反応であったな」
林は腕組みをし、難しい顔で答える。
「医生?」
彼のその様子を、王陸は不審に思った。
「否。喜んでおったよ。だが、一月近くも会っておらぬのに、その再会振りは丸で、近所に遊びに行っていた子を迎える様な、そういう風に映ってな」
そう云いながら林は、顎髭を扱く。
「それはつまり、大姐は未だ…………」
王陸は眉間に皺を寄せた。
「そうではない。以前に比べれば、極めて良好であり、正気である。
只、時の流れに、少々疎い傾向にあるのだろうね」
「左様でありますか」
林が云う様に、夏飛は震災が発生した日から、玉花の病房で共に寝起きをしていた。
大姐は問題ないとして、ならば、小雨はどうだろうか。
つと視線を向け、王陸は林を見た。
それに気付き、林はふと表情を和らげる。
「なに、小雨も変わりはないよ」
「それなら、何よりです」
「顔を出して行くかね?」
「医生! ちょっと済まねぇ!」
林の言葉が終わるのに被さり、診察室から声が飛んで来た。
「ふ。この様な時に訪問してしまい、失礼致しました」
王陸は自嘲気味に笑うと、立ち上がり拱手の礼をする。
「いやいや気にするな、王陸も姑娘と小雨を心配して参ったのであろう」
林は軽く頭を振って、同様に立ち上がるとそう返した。
「……………」
王陸の本来の目的は、江謙の件であったが、医生も忙しそうであるし、自身も余り長く楼を空けてはおられぬ。
「では、少々大姐達の様子を見て、早々に御暇させて頂きます」
「そうかね」
林は頷いた。
そして、奥へと姿を消す王陸に見送りながら、ふと気付く。
あぁそうだ、軍人が訪れた事を話すべきだったか。
否、余計な心労を負わせるのも気の毒であろう。
「医生!」
再度呼ばれ、心を残しつつ、林は診察室へと向かった。
2022年最後の投稿です。
2023年も引き続き、宜しくお願い致します。
読んで下さり、ありがとうございます。




