其の七十三
林清源の診所から三人の軍人が姿を現した所へ、子絽と一翔は遭遇した。
軍人がこの様な場所に居る事も意外であるが、この場の異様な雰囲気にも驚く。
「…………おい」
軍人の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、子絽が肘で一翔の脇腹を突いた。
「何だ?」
「今の、軍人のひとり、江謙じゃなかったか?」
「あ?」
子絽の言葉に一翔は思わず振り返り、既に姿を消した軍人達の影を目で追う。
「彼奴、確か、月夜楼の常連だぜ」
怪訝そうに子絽は云った。
「なら、どういう事だ? 姐さんが居るのに気付いて来たって?」
一翔は特別焦る風もなく、さらりと口にする。
「さぁ? それは何とも云えねぇな。こんな状況だし」
子絽は首を捻り、「とにかく」と一翔を促して診所へ向かった。
診所内は、興奮覚め遣らぬ空気に包まれている。
当然だ。
普段は皇帝の名を笠に着て、往来を肩で風を切って歩く様な者達が、卑下している民達の目前で恥をかかされ、更に尻尾を巻いて逃げ出したのだから。
「……………」
この雰囲気に、流石のふたりも目を丸める。
「あぁ、来たのか」
そんなふたりに気付き、林が声を掛ける。
「医生。何すか? これ」
子絽の質問に、林は事の顛末を語った。
話しを聞き終え、否、その前からふたりは、何やら心に蟠りを生み、渋い顔付きだ。
しかし、周囲に忍び笑いが静かに起こり、そして耐え切れず、とうとう爆笑となる。
「いやぁ、軍の御偉いさんが来た時は、どうなるかと思ったがよ」
「本当にな。でも理解のある者が上官なら、まだまだ軍も捨てたもんじゃあねぇな」
「あの若造共の狼狽振りときたらよ」
「まぁ、ちと、気の毒ではあったがな」
「おうおう! 優しい事ぁ云ってらぁ」
ここぞとばかり、云いたい放題である。
「これこれ、大概にせぬか」
あまりの揶揄っぷりに、林は苦笑しつつも場の高揚感を鎮める様に、やんわりと叱った。
この空気に呑まれ、子絽と一翔も思わず苦笑してしまう。
「しっかし、豪毅な姑娘だよなぁ!」
と、誰かの云った言葉に、ふたりははっとした。
場内を見回すも、彼女の影すら見当たらない。
「姐さんは?」
一翔がそれとなく林に訊く。
「多分、病房へ戻ったのであろう」
「ちと話しがしたいんだけど」
子絽もそっと云う。
「ん? 姑娘とかね?」
「否。医生とだ」
ぴりっとした気色を纏わせつつ、子絽は返した。
「良かろう。但し、診療後となる故、遅くなるぞ」
「それは、承知の上だぜ」
一翔が云い、子絽も頷く。
夜の帳が下りた頃、林と子絽と一翔の三人は、林の臥房に集る。
「それで、話しというのは?」
三人が卓を囲んだ所で、林が口火を切った。
卓上には徳利が並んでおり、林を待つ間にどうやらふたりは、軽く酒盛りをしていた事を物語っていた。
「先刻、医生が云ってた通りなら、姐さんは、軍人共と顔を合わせたって事だよな?」
酒が入っている事なぞ微塵も感じさせず、子絽がはっきりとした口調で言葉を発する。
「左様」
林は頷いた。
「あの軍人共のひとりがよ、月夜楼へ足繁く通ってんだよ」
子絽は続ける。
「江謙であろう? 幾度か楼で見掛けておる」
林はそう返し、盃に注いだ酒を呑んだ。
子絽も盃を空け、ひとつ息を吐いてから、
「医生の話しからして、彼奴がここを訪れたのは、まぁ、偶然だろうな」
言葉を吐き出す。
「そうだな」
林は子絽を見やりながら頷き、
「懸念しておるのだな?」
訊いた。
「それは、そうだろう」
子絽は視線を上げ、林と目を合わせる。
「だがな、彼の者は姑娘を、私の女儿(娘)だと思い込んでおる。そう構えずとも良かろう」
林はふと表情を和らげながらに云う。
「医生………… そんな考えは捨てた方が良いぜ」
子絽は酒を一口呑み、言葉を選びながらにそう進言する。
「それは、どういう意味かね?」
「姐さんの言動は、強く江謙に印象付けたろう。今は不明でも、負の感情として何度も思い起こす内、楼での記憶も相俟って、姐さんの正体に気付かねぇとも限らねぇ」
恐ろしい程の真顔で、子絽は云った。
「なる程の、それも否めぬか」
林は腕を組み、考え込む。
そんな中、一翔がふと笑った。
「子絽、いつになく感情的じゃねぇか」
その言葉で我に返り、子絽は頭を掻いた。
そして、彼もまたにやりと笑う。
「否、俺じゃねぇ」
「じゃあ、誰だってんだよ?」
一翔はきょとんとし、同じくきょとんとする林と顔を見合わせた。
王陸は隔靴搔痒の感であった。
未曾有の震災が起った、その時、何もかも投げ捨てて玉花の下へ駆け付けたかった。
だが、彼は月夜楼の小性だ。そんな事が罷り通る筈もない。
安否を確認する術も儘ならない状況下である。
妓楼が連なる本通りは幸い、大きな被害には及ばなかった。
不謹慎であると知りつつも、「残念」であるという想いが、心を掠める。
そんな王陸にとって唯一救いなのは、楼から夏飛が姿を消した事実が、この混乱で一時紛れた事だろうか……………




