其の七十一
林清源の診所へ協力要請の為に訪れたのは、江謙という名の八雲軍の第三部隊兵であり、月夜楼にも頻繁に出入りしている為、奇しくもふたりは顔見知りであった。
「…………医生、何を躊躇う必要がある?」
黙り込んでいる林の心情が理解出来ず、江謙は渋い顔でそう尋ねた。
「否。隧道が崩壊したのだ、その惨状も容易に把握出来よう……………」
林は返して、ひとつ息を吐くと、
「だが、こちらにも多くの負傷者が出ておる。患者を置いて行く訳にもいかぬ」
素直に吐露する。
「愚蠢! 愚か者がっ!!」
その林の言葉が癪に障り、江謙は怒鳴った。
「主が診ているのは只の民草だろう? こっちは国家事業に携わっているのだぞ!? 優先して然る可きではないか!?」
軍人の剣幕に、事の成り行きを息を潜めて注視している患者やその家族達は、びくりと身を震わせる。
江謙の横暴振りを既に認知している林は、その態度に驚く事もなく、唯、深い溜め息を吐いた。
そこへ、またひとり軍人が入って来た。
「江謙、何を遊んでいる?」
軍人は苛々とした口調で喝する。
「あぁ。岳章か」
突然入って来た軍人を見やり、江謙は口を開いた。
口振りから、どうやら同輩だと思われる。
岳章はざっとこの場を見回し、林清源へじろりと視線を向けた。
「この診所の医生は、お前か?」
「はい。左様にて」
林は拱手の礼で以てそう答える。
「事情は聞いていよう。即座に仕度をし、我らに付いて参れ」
新たに現れた軍人の見下したその態度に場内は、益々厭な空気に包まれた。
そんな雰囲気の中でも岳章は、顔色ひとつ変える事はなく、軍人らしい鋭い視線で林を促すのだ。
「御待ち下さいませ!」
と、鋭い声が飛んで来た。
場がざわりとし、声のした方へ視線が向けられる。
皆の視線を受け、人垣を掻き分けて姿を見せたのは、玉花だ。
玉花は林の横に立つと、頭を下げて拱手の礼で軍人達に敬意を払いつつ、
「この診所には林医生独りのみ、今連れて行かれる訳にはゆきませぬ。どうか、御慈悲で御座居ますれば、御見逃しの程を」
凛とした態度でそう乞うた。
そのしっかりとした玉花の言動は喜ばしいが、林には不安でもあった。
「黙れ! 女人の分際で我らに楯突く気か!?」
江謙が玉花の肩口を突き、怒鳴る。
それにより、彼女は後ろへよろめき、体勢を崩して尻餅を付いた。
「なっ! 何をなさいます!」
林が慌てて玉花の側に膝を着き、躰を助け起こしながら、江謙へ叫んだ。
「その女人は、お前の女儿(娘)か? 女儿あらば良く云い聞かせるのだな。八雲軍に楯突くという事は即ち、皇帝陛下に楯突くという事だとな」
ふたりを見下ろしながら、岳章は云い放つ。
その言葉は、この場に居る人々にも絶望感を与えた。
「…………有り得ぬ」
そんな中、玉花が口の中で呟いた。
「何だと? 今、誰か何か云ったか?」
それを耳聡く拾い、江謙がぎろりと周囲を見回す。
玉花はしっかりとした足取りで立ち上がると、江謙を鋭い視線で捕える。
「武官様方の言葉がその儘、陛下の御言葉だと申すのならば、民草を選別し、差別していると捉えて宜しいので?」
彼女の言葉に人々は、不満と嫌悪の色に染めた目で軍人達を見た。
江謙は苛々と舌打ちをし、玉花を睨め付ける。
岳章はそんな彼を制し、一歩進み出ると、
「今は時が惜しい、故に不問とするが、女儿のその発言は不敬ぞ? 極刑に処されても文句も云えぬのだぞ」
口元を歪めた。
「極刑」と聞き、皆は息を呑む。
「そうであれ! 私が極刑に処されるのは一向に構いませぬ! 故に、医生を御連れにならないで下さいませ!」
玉花は今一歩出て、強い口調で訴える。
彼女の言葉、林の脳裏には夏飛の姿が過ぎった。
いけない!
林が強く思ったのと、略同時にそれは起った。
「今更、極刑なんて!」
「医生を連れてかれたら、残された怪我人はどうなる!?」
「どうせ見殺しにされんなら、極刑も同じだぜ!」
「そうだ! 怖かねぇ!」
患者の家族や軽症者達が、玉花の言動に触発されたかの様に騒ぎ出した。
「っ!?」
ふたりの軍人は、一瞬怯むも、直ぐに威勢を取り戻し、騒ぐ群衆を威嚇する。
「黙れっ!」
「それ以上騒ぐ様なら、本当に引っ張るぞ!」
有ろう事か江謙は怒鳴りながら、近場に居る者を足蹴にした。
彼の行為は当然の如く、人々の怒りを更に煽る事となる。
騒ぎは、開け放たれた戸から外へ飛び火して、集まっていた野次馬にも広がった。
こうなってはもう、誰が何を云った所で、焼け石に水であろう。
林の不安が的中してしまった……………
1週間遅れての投稿となりました事を、お詫び致します。
お付き合い下さり、ありがとうございます。
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