其の八
月夜楼の奥、滅多に人の来ない廊下の先に、妓女がふたり居た。
雪梨と梅花である。
「………滞りなく、厨番の京衡殿にあれを託して参りました」
梅花が口を開いた。
「そう、有難う。変な事を頼んだりして、悪かったわね」
「とでもない事です。姐姐の頼み事なら、何でも致します」
雪梨の言葉に梅花は、阿諛する様に笑顔を向ける。
「ふふ。梅妹は可愛いわね」
雪梨は微笑む。
「それにしても、あれは何なのですか?」
梅花は、疑問を素直に投げ掛ける。
「秘薬よ。大姐にはもっと、気張って頂きたいもの」
雪梨は事も無げにそう返した。
その様子を見、梅花はぞっとして、笑顔を引き攣らせた。
姐姐は恐ろしい女だ。だからこそ、敵に回してはならない………
事件が起こった夜、妓女・芙蓉は雪梨と同じ房間にて、箏を奏でて酒宴に花を添えていた。
用人の叫ぶ声に、房間内も不穏な空気に包まれる中、雪梨は僅かに口元を歪めて嗤うのを、芙蓉は目撃した。
「何事だ? 騒々しいな」
客人であるひとりの武官が眉を顰めて、誰となしに問うた。
「ほほほ…大方、野暮な御仁が騒いでおられるのでしょう」
雪梨は袖で口元を隠し、先程とは違い、婀娜な笑みを向ける。
「没風流漢は断るべきだな、酒が不味くなる」
武官はそう吐き捨てて盃を空けると、雪梨へ突き出した。
「本当に、そうですわね」
雪梨は困った様に笑い、その盃に酒を注いだ。
「…………」
この場の様子を芙蓉は房間の隅から、唯黙って眺めて居た。
正体を失った玉花はその後、妊娠出産の際に入れられていた、元蒲団部屋に軟禁された。
愛しい男に似た我が子の顔を目の当たりにするも、興奮は冷めやらず、彼の者への想いは募るばかりである。
軟禁されて一週間。
その間、世話役として風香だけが訪れるばかりで、愛息子の夏飛は姿を見せなかった。
それは、当然といえば当然であり、二才の夏飛に酒乱姿の母は衝撃的で、恐怖心さえ植え付けたのだ。
そして、それ迄活発だった夏飛は、笑顔を失くし、懐いていた風香にさえ心を閉ざしてしまった。
事実上失脚した玉花太夫は、表向きには大病を患ったとされた。
この事で、雪梨が勢力を伸ばし、次期太夫の座も濃厚だと誰もが信じ、大半の妓女や用人達が雪梨に取り巻いた。
雪梨も雪梨で、
「大姐も既に二十九、此度の事がなくとも遅かれ早かれ、身を引く日は来るものよ」
そう吹聴をし、周囲の関心を集める。
玉花が蒲団部屋に入れられていたのは十日程、その後は元の住居部屋に戻されたものの、当然ながら、表に出る事は禁じられた。
そして、この頃になると、精神安定剤として与えられた鴉片(阿片)に依存する様になっていた。
そんなある夜、珍しく芙蓉が夕餉を運んで来た。
「御機嫌は如何でしょうか、大姐」
夕餉の膳を卓上に置き、寝台で横になりながら煙管を銜えている玉花へ、芙蓉は声を掛ける。
「まあまあよ。
それよりどうしたの? 貴女が来るなんて」
玉花は笑みを向ける。
「大姐のお耳に入れておきたい事がありますので、参じました」
寝台へ侍り、芙蓉はそう返した。
「あら、何事かしら?」
煙を吐き出し、玉花は訊く。
「大姐の後釜に、雪梨姐姐が太夫となるそうです」
「そう、結構な事だわ」
玉花は眉ひとつ動かさず、微笑みながらに云う。
「………そうでしょうか? 私は、納得出来兼ねますが」
そんな大姐の表情を暫し見ていてから、芙蓉は返した。
芙蓉は齢十八。裏表が無く、竹を割った様な性格であり、その所為か口調がやや男っぽい。
「何故?」
「私は箏が得意なお陰で、妓女としては当然ながら、弾き手としてでも色んな宴席に招かれておりますが故、他の妓女達の為人は略総て把握していると云っても過言ではありませぬ」
「だから?」
「今回の件、雪梨姐姐が大姐を陥れたのだと、私は考えております」
芙蓉は真顔で云った。
その言葉を聞いて玉花は、あの時の酒に対しての違和感を思い出す。とはいえ、それを持ち出す気もない。
だから玉花は笑顔を崩さず、
「仮にそれが真相だとて、何だというの」
そう云った。
「ッ!?」
大姐の意外な言葉、芙蓉は顔色を変えた。
「大姐は口惜しくはないのですか?」
「口惜しくないと云えば、虚偽ではあるな。
なれど、起きてしまった事は取り消せぬし、誰かに陥れられたのだとしても、私が起こしてしまった事には変わりはないでしょう」
玉花はそう云い、煙管で灰吹を叩いて灰を落とした。
「然りとて、太夫という御立場が………!!」
身を乗り出して芙蓉は口調を荒げるも、言葉を途切らせる。
玉花の笑みが、哀愁に変わったのに気付いたからだ。
「太夫にはもう、愛惜もない」
その言葉は、余りにも淋し過ぎた。
芙蓉は表情を曇らせた。