其の六十九
邵雍殿は後宮の東に在り、その敷地内には、歴代の帝の御霊を祀ってある霊廟・寧寿宮が建てられている。
特別な儀式がない時は、沙門太監が管理しており、普段はひっそりとしている場所である。
しかし今は、妃嬪達とその公女達、更には彼女等に仕える宦官と侍女達も身を寄せていた。
そこへ春琴が姿を現せ、迷う事もなく奥に居る青尹太子妃の下へ進んだ。
「太子妃殿下」
侍女の戚雉と共に腰を下ろしている青尹の前で、春琴は跪く。
「春殿、皇太子殿下は如何されたのです? この様な忌々しき事態において、殿下が太子妃様の下へ訪れぬとはっ!」
おろおろし、声すら出せぬ青尹に代わり、戚雉が春琴を責め立てた。
彼女の声に、場がしんとする。
それも束の間、誰かがふと鼻を鳴らすのが耳に届く。
「愚かしいの」
それは、佳羅嬪殿下の侍女・梨香である。
皆の視線が彼女に集まる。だが梨香は臆する事はなく、すっと立ち上がると戚雉を見据えた。
「其方、羅妃殿下の生家からの女官か?」
「左様にて御座居ます」
嬪殿下の侍女に声を掛けられ、戚雉は畏縮しつつも答える。
「これは滑稽。羅家は女官の躾もなっておらぬ様だな」
梨香は、少し開いた扇子で口元を隠し、くつくつと嗤いながら云い放った。
そこかしこから忍び笑いが起こる。
戚雉は恥ずかしくなり顔を赤らめ、青尹も居た堪れない想いだ。
この場の厭な雰囲気を払拭しようと、春琴が動こうとした時である。
「止めよ」
佳羅嬪が静かに口を開き、横目で梨香を見た。
「仮にも太子妃殿下の侍女に対し、梨香、少々口幅ったいのではあらぬか」
「これは、失礼を申した」
佳羅の言葉を素直に聞き入れ、梨香は戚雉に拱手の礼で以て詫びた。
「……………」
青尹と戚雉は咄嗟には言葉が出ず、唯頷くのみである。
嬪殿下が場を収拾し、侍女を諭した事は意外ではあったが、ともかく、春琴はほっと胸を撫で下ろした。
そして、改めて太子妃の御前に跪き、頭を垂れる。
「奴才、申し上げます。皇太子殿下の命により、不束者では御座居まするが、太子妃殿下に侍らせて戴きます」
青尹は、戚雉が云った様に、この緊迫した状況下で夫である皇太子が側に寄り添って貰えない事に、不安と寂しさを感じていた。だが、だからこそ、春琴の存在は非常に心強くも有り難い。
正に『青天の霹靂』
未だ微震が続く中、逃げ惑う人々の行く手を、上がり始めた火の手が阻む。
怒号と悲鳴。
驚慌の空気に、帝都は覆われた。
一方、林清源の診所は、目立つ程の被害は受けなかったものの、矢張り案じられるのは、精神疾患の玉花だ。
その時分、林清源は夏飛と夕食を摂っていた。
地震が起こると、咄嗟に夏飛の腕を引っ張り寄せ、小さい躰に覆い被さる様にして庇う。
揺れが一旦鎮まると、林清源は急いで衾を持って来て、夏飛をそれで包む。
「良いか小雨、暫しこの儘ここで待っておれ!」
そう云うと、夏飛の返事を待つ余裕もなく、房間を出て行った。
向う先は無論、玉花の病房である。
病房へ入ってみれば、玉花が房間の隅で縮こまって震えていた。
「姑娘! 大事ないかね!?」
林清源は玉花に駆け寄る。
その声に彼女ははっとして顔を上げると、医生の姿を認知した。そして、泳ぐ様な手の仕種で彼の胸倉を捕えた。
「林医生! 夏飛は? 夏飛は無事であろうの!?」
玉花のその問い掛けは、鬼気迫るものがあった。
「夏飛」の名を聞き、林清源はぎょっとする。
否、違う。小雨がここに居る事を、姑娘が知る筈がない。
そうなのだ。突然の激しい揺れに玉花は混乱をし、今居る環境を把握出来ていない可能性が高いのだろう。
林清源は小さく息を吐き、まずは自身を落ち着かせると、両腕で玉花の身を抱き締めた。
「案じる事はない。小雨は大事ない」




