其の六十七
夕暮れ時、烏が鳴きながら飛んで行く姿は、日常の事ではある。
だが、その日の夕暮れ時は常とは異なり、五十羽近くの烏が、騒ぎながら飛び交い、そうかと思えば、夜明け頃には鳴き声もぴたりと止んでしまい、一羽の姿も見られなかった。
市井の人々は気味悪く思うものの、何時もの生活の喧騒に身を投じている内には、そんな出来事も頭の片隅へ追いやってしまう。
そして晩刻。
多くの者達がほっと息を吐き、団欒の時を過ごしている、まさにその時である。
僅かに家具が音を立て、その音が徐々に大きくなると共に揺れを躰に感じ、そして、突き上げる激しい縦揺れが発生し、立っていられない程だ。
皇太子・耀舜はこの時、紫微城は執務室である、儲秀宮に居た。
突然の強い揺れに、側に侍っていた春琴が直ぐに反応をし、咄嗟に耀舜の躰を身を挺して庇う。
揺れが落ち着いて来ると、耀舜は身を起こして、
「大総官は今、何処か?」
険しい表情で尋ねた。
「畏れながら。陛下が既に御就寝と報告を受けておりますので、房間へ下がられているかと存じます」
春琴は耀舜から離れ、拱手の礼で以て答える。
「殿下! 御無事であられましょうか!?」
と、扉の外から、近衛兵が慌てた口調で問い掛けた。
「案ずるでない、無事だ」
耀舜は扉越しに応え、そしてひとつ息を吐くと、
「その者、錦衣衛と連携をし、後宮の者達を安全な場所へ避難させるのは無論、被害の有無を確認し、どの様に些細な事でも報告せよ!」
そう指示を出す。
「御意!」
近衛兵の気配が消えると、それと入れ替わりに、今度は瑠偉武が姿を見せた。
「殿下! 御無事で…………」
「瑠偉武! 未だ残っておったか」
耀舜は彼の姿を見て心強く想い、その感情が溢れる様に口を開き、言葉が被さった。
瑠偉武は改めて包拳の礼をする。
「して、宿直の官吏達は如何に?」
「皆、軍機処へ集まっておられている模様」
「ならば、我も向かう。瑠偉武付いて参れ」
「は。意の儘に」
ふたりが儲秀宮を出て行く跡を、当然春琴も追おうとするが、耀舜が振り返り彼へ視線を向けた。
「否、春琴は青尹に侍っていて貰いたい」
「!?」
皇太子の意外な言葉に、春琴は驚いた。
「青尹は、世俗の言葉を借りて表現する所の、内人だからな」
耀舜皇太子はそう云うと、ふと笑む。
『内人』とは即ち、『妻』の意である。
「承りました」
拱手の礼で春琴は返し、身を翻すと先に儲秀宮を後にした。
時刻が時刻の事もあり、城内に残っている文武官吏は、昼間の四分の一程度しか居ない。
揺れが一旦収まると、六部の格官吏達は、示し合わせた様に軍機処へ集まった。
「陛下は御無事かっ!?」
「只今太監が走っている!」
「李宰相の所へは?」
「軍機章京のひとりを早馬で向かわせた!」
喧々囂々とする軍機処て、皇太子が瑠偉武を連れて現れた。
「っ!!」
それに気付き、官吏達は咄嗟に跪く。
「否、今は火急の時、略式で構わぬ」
厳しい表情で耀舜は云い、官吏達を立たせた。
「では、失礼致しまして御伺い致します」
切り出したのは、礼部侍郎の袁凌である。
「後宮は目下の所、如何なる事態であられましょうか?」
袁凌は、佳羅后妃の実父である為、その緊迫した問いは当然だ。
「案ずるな。陛下を始め、後宮の者達は、既に避難させる様に手配済だ」
耀舜はひとつ頷いて、柔らかくそう伝えた。
皇帝陛下が安全な場所へ避難していると聞き、官吏達は安堵の息を漏らした。
「報告致します!」
と、そこへ武官がひとり、息を切らしながら飛び込んで来た。
「っ!」
そして、彼もまた、皇太子の姿に気付くと、慌てて跪く。
「好い!」
耀舜は武官のその行為を制する。
「如何した?」
瑠偉武が武官に問うた。
「は。が、外朝は重要視する程の被害は見られぬものの、外壁の一部に破損箇所が生じました事を報告致します」
武官は包拳の礼で以て、緊張気味にそう告げる。
「それは、何処である?」
官吏のひとりが訊く。
「茲寧門の左手であります…………」
「李宰相御入城!」
「報告致します!」
武官が答えている最中、次々と情報が入った。
誰かの報告を待つ余裕がない程に、この場の空気が乱れ、皆右往左往とする。
「……………」
軍機処内が混乱している様を耀舜は暫し眺め、そして、手を大きく打ち鳴らした。
その良く響く音に、空間がびくりと震え、漸く皆は我に返り、再び皇太子へ注目する。
「皆落ち着け! 報告はひとつひとつ聞き入れ、指示を出す」
耀舜は皆を見回し、凛とした態度で口を開いた。
その姿は正に『皇太子』然であり、未だ若輩であるにも拘らず、この場の者達を圧倒し、そして陶酔せしめた。




