其の六十六
小さなボイラーの様な物をリヤカーに乗せ、蒸気を逃がす煙突から、甲高い笛の如く音を鳴らしながら移動をし、羅宇屋が来た事を周囲へ知らせた。
月夜楼の楼主・陳茂叔もその音を耳にして、王陸を呼び、愛用の煙管を託す。
王陸も心得ており、何も聞かずに煙管を預かると、裏門から出て、辻で商いを始めた羅宇屋の元へ歩みを寄せた。
中年の羅宇屋はここ一年、多い時は週に二度、この辻で商いをしている故に、当然王陸とも顔見知りではあったが、必要以上に言葉を交わす事はなかった。
しかし、今日は少々事情が異なった。
王陸が煙管を差し出すと、羅宇屋は彼の顔を一瞥して口を開く。
「主は、王陸と申す者か?」
その意外な事に、当の王陸は動作を止め、きょとんと彼を見た。
「文を預かっている」
王陸の心内には然程の興味も抱かず、唯、彼の表情の色から「そうだ」と肯定をし、羅宇屋は懐から文を取り出した。
「ど、何方から? 否、それ以前に、御仁は一体……………?」
戸惑う王陸。
「………………」
羅宇屋はそれ以上は口を開かず、更に文を突き出した。
訝しみつつも、王陸は文を受け取る。
「小半時程掛かる」
煙管を解体しながら、羅宇屋はそれだけ告げた。
「承知しました」
王陸はそう返し、文を懐へ入れると、この場を離れた。
文に何が記されているのかは分からないが、公然と文を開くのは憚られると悟ったのだ。
裏通りに在る茶房へ入った王陸は、早速文を取り出し、逸る心を抑えつつも開く。
「!」
この筆跡、もしや子絽か?
少し意外に思うも、それも束の間であり、直ぐに得心する。
赤蛇団は、元馬賊からなる集団だ。表の生業がある一方で、水面下で動いている者も居よう。
ならば、あの羅宇屋も、赤蛇団の一員と見て相違なかろう。
王陸はつと顔を上げ、窓から羅宇屋が居る辻の方角へ視線を向けた。この場所から見える筈のない姿を、まるで見詰める様に。
ふとひとつ息を吐き、再度文面に視線を落とした王陸は顔を顰める。
文には、『役人が白花姐さんを探りに、朱貫と接触致し』とあり、『心当りが有するならば知らせたし』と結ばれていた。
「……………」
朱貫は、胡暗に在る典当舗の主人だ。
その人物と役人が接触し、大姐の事を探っているとは……………
王陸の脳裏に、春琴の顔が浮かんだ。
彼曰く、大姐は俗名である白花の名で、簪をその典当舗へ流した。だとすれば、件の役人は給付見舞金に携わる者と見るべきか? そして、名簿から名が消えた白花の素性を、理由はどうあれ、探っている内に朱貫の存在に辿り着いたのだろう。
そう思考を巡らせながら、黒茶をこくりと飲む。
嗚呼…………
王陸は、右肘を卓上に立て、徐にその手で顔を覆った。
もう誰も、大姐に関わって貰いたくはない。それが例え、大姐の事を心から想っているとしても、そうであろうとも、これ以上は、大姐の心を乱すのならば、何人たりとも、大姐の側に近付けさせたくはない。
痺れる程に、眉間に皺を寄せる。
王陸の思う「何人」の中には、彼自身も含まれていた。
『近く足を運ぶ』
子絽宛の返書を羅宇屋へ託した。
その夜。
誰もが気を緩め、昼間の緊張が蕩け、飄逸な刻を興ずる帝都。
その緩やかな雰囲気を脅かすモノが静かに迫っていた。
こここ………
静かで、遠慮する様な小さな異変。
それは徐々に大きくなり、腹に響く程の地響きとなり、遂には、突き上げる激しい縦揺れとなった。
未曾有の大地震。
帝都は忽ち、蜂の巣を突いた様な大騒ぎとなった。




