其の六十五
外出から鈴宝楼へ戻った子絽を、一翔が捕えた。
「…………先刻よ、没中門へ行ってたんだけどな、そこで朱の旦那と遭って、面白い話を聞いたぜ」
中庭へ子絽を誘い、一翔は語り出す。
「何だよ? 面白い話って」
子絽は近くの庭石に腰掛けながら、そう訊いた。
彼の言葉を聞きつつ、一翔は岩に身を預け、煙管を取り出すと口に銜えて火を点ける。
「あぁ、何やら、旦那の客に就いて、役人風の奴が探って来たそうだ」
煙を吐き出し、一翔はさらりと答えた。
「へ? 役人が何でだよ? それに、朱の旦那の客って事は、典当舗の客って事じゃねぇか」
子絽は目を丸め、身を乗り出す。
彼が云う様に朱は、胡暗の路地裏に在る、典当舗の主人だ。
「そうだ。しかも、探ってんのが役人ってとこが興味深いだろ?」
一翔はにやりとする。
「っ!」
それに対して子絽は、はっと気付いた。
「もしかして、その役人は、白花姐さんを探ってるって事か?」
「俺はそうだと踏んでるぜ?」
「て、事は、件の見舞金にも絡んでるって事かよ」
興奮気味にそう返す子絽。
「だろうよ」
一翔はそう云い、ゆったりと煙を燻らす。
「に、しても、姐さんと朱の旦那が知り合いだった事は、まぁ置いといて、その役人は何処でこのふたりの接点に気付いたんだろう?」
腕を組み、暫し思案を巡らせてから、子絽は疑問を口にした。
「おっとぉ。云われてみれば、然りだ」
彼の言葉に、一翔ははっとする。
「王陸なら、何か耳にしているかも知んねぇな」
子絽は云いながら、麗らかな空を見上げた。
「あー、王陸か」
一翔も見上げ、空に向けて煙を吐く。
「あの年であの落ち着き様、小性にしとくのは勿体ねぇな」
ぽつりと云った彼の言葉、子絽はくくっと笑い、
「とりあえず、使者を送っとくか」
そう云った。
「そういや近頃、榴哥を見ねぇけど?」
常に葛榴と共に行動している子絽が、この所単独で動いている事をふと思い、一翔は訊いた。
「そうそう。今よ、隧道開通工事で福林省に出張ってんだよ」
「あ? 鉄道を通すってあれか」
「それだな。火車とかいう、連なった箱車が走る道の整備工事だ」
「おいおい、そりゃあ、多くの民が反対してるっていうじゃねぇか、何でまた榴哥は、そんなもんに従事してんだよ?」
不可解そうに一翔は眉間に皺を寄せた。
「新政府の意向だからな。
因みに、侠羽大哥と馮渉大哥も筆頭で出張ってるそうだぜ」
子絽はふと嗤い、付け加える様に云う。
「は、そうかよ」
一翔は面白くなさそうに、灰吹の縁を煙管で叩いた。
「けどよ、頭が請け負ったんだ、見通しがあっての事なんじゃね?」
そんな彼を宥める様に、子絽は云う。
「なら良いけどよ」
一翔は鼻を鳴らした。
民が鉄道事業に反対する背景には、永らく庶民の足として利用されて来た人力車の車夫達の反撥が大きく、その反撥が線路を敷設される予定の周辺に広まり、特に寄宿を営む者達を触発し、新政府との間に軋轢が生じた。工事が始まった今も尚、抗議の声が絶える事がないのだ。
この事業に赤蛇団が起用された理由は、どうにか軋轢を緩和させ、抗議の声を鎮めるのが目的であった。
月夜楼から夏飛の姿が消えて、早一週間が経っていた。
普段は気にも止めていない楼の者達も、流石に一週間も誰の目にも触れていない事が気になっていた。
しかし皆、他人の視線が気になると見え、あからさまには口にはしなかった。
楼内のその微妙な空気は、芙蓉にも伝わっていた。
だが、まだ雪梨側には、何の動きもない。
それが、空恐ろしくもある。
ふと、窓から外界を見ると、辻に羅宇屋が座り込む姿があった。
あぁ、そろそろ羅宇を挿げ替えねばな……………
芙蓉はそう思っただけで、特別深く考えず、この場を後にした。
芙蓉が窓から離れた後、裏門を潜って王陸が出て来、迷いもなく、辻に居る羅宇屋と接触したのである。
注釈
◎火車→汽車
◎羅宇→煙管の雁首と吸い口とを繫ぐ竹の管。その管を挿げ替える職人を『羅宇屋』と呼ぶ。ラオス産の竹を用いた事から、『ラウ』或いは『ラオ』と呼ばれた。




