其の六十四
青尹太子妃は今年、数えで二十歳となる。
後宮に入ったばかりの頃は、まだまだ世間知らずの体であったが、近頃では『太子妃』らしく振る舞う様になって来た。
それでも矢張り、培った心根は変わらず、自身の意見を口にする事も、感情を表に出す事も少なかった。
戚雉にとって、それがもどかしい。
青尹の父親である、羅史部侍郎に仕えている側近が戚雉の父だ。その事から、青尹の遊び相手として戚雉が充てがわられ、幼少の時分からの侍従関係であった。
「…………此度は、点心を御届け出来ぬ事を、心苦しく存じます」
使いから戻った戚雉は、鐘粋宮で青尹と拝謁し、跪くと開口一番にそう詫びた。
「ふふ。気にせずとも好い。また、次の機会もあるでしょうし、先に楽しみが待っておるのも一興だ」
青尹はころころと、少女の様に笑いながらそう云って、戚雉を気遣う。
「時に、市井はどうであった? 変わらずに賑わっておったか?」
それとなく問われた言葉に、戚雉は答える事を躊躇った。
「………………」
彼女の脳裏には先刻出逢った、妓女の姿と言葉が浮上していたからだ。
あの年若い妓女の様子を鑑みれば、自身の挿している南天の簪は、元々は姐妓女の物なのであろう。それも、馴染みの客からの貢ぎ物だ。
この簪の本来の持ち主こそが、青尹に惨めな想いをさせている、皇太子殿下の忘れ難き君なのではあらぬか。
「…………戚雉? どうしたの?」
憮然たる面持ちの侍女を気にして、青尹は彼女の顔を覗き込みながらに訊いた。
戚雉は我に返った。
「いいえ。御心配、痛み入ります」
云って跪く彼女を見て、青尹は苦笑する。
「そう畏まらないで、今は我らのみなのだから」
主人のその言葉を受け、戚雉はこくりと唾を呑み込むと、そろりと面を上げた。
「不躾ながら、御尋ね致します」
「改まって、何かしら?」
青尹は態と崩した口調で訊き、侍女の緊張を解す。
「もし、もしも、殿下に忘れ得ぬ女人が居られると、もしそうだとしたならば、太子妃様の御心中は……………」
戚雉は最後まで言葉を口に出来ず、途中で濁した。
「……………っ!」
青尹が目を丸め、そして、つと視線を落とした。その表情には、愁いの色が濃い。
「あ、あの、もしもの話しで御座居ます」
主人のそれを認めてしまえば、戚雉には、慌てて取り成すしかなかった。
「いいえ、分かっておる。殿下から御声が掛けて貰えずに久しい。そういう者が、もしや居られるのでは、と、私も、考えなくもないからの」
安楽椅子に身を沈め、青尹はふと小さく笑う。
「で、でも、あの、申し訳御座居ませぬ!」
ばっと戚雉は拝跪した。
「ですが、殿下は今、御側室も居られませぬ故、私の勝手な想像でしか御座居ませぬのに、太子妃様の御心を無用に乱してしまいました!」
拝跪した儘で、戚雉はそう続けた。
彼女のその様子を見、青尹はふふと笑む。
「慰めて呉れるのね。嬉しいわ」
「当然にて御座居ます! 戚雉は太子妃様の味方なので御座居ますから!」
彼女は面を上げ、改めて拝顔すると、力強くそう云った。
自室の房間に下がった戚雉は、髪から南天の簪を引き抜くと、それを睨め付ける。
簪は相も変わらず、美しく、月明かりを吸い込んでいた。
この簪がもし本当に、殿下からの贈り物なのだとして、何故その姐妓女はこれを手放したのだろうか。
殿下への想いが消えたから?
故に手放したというのであれば、殿下も気付いておられよう。初めて謁見した時より常時、この髪に挿しているのだから。
それに、殿下の贈り物ならば、逸品物に違いない。
それなのに、気付いておられるというのに、未だ忘れられぬというのか。太子妃様と向き合う事も出来ぬ程に……………
戚雉は歯軋りをする。
何れ、殿下は、その妓女を宮妓にする御つもりであろうか?
否、その様な事は許さない。
させぬ。
どうにか阻止せねばならぬ!
「……………」
戚雉は、南天の簪を強く握り締めた。
そして、暗い考えが、脳裏を掠める。
その妓女を亡き者とすれば、この世から消してしまえば、流石に殿下も諦め、御心は太子妃様へ向けられるだろう。
そう考える戚雉の顔は、正に鬼面そのもの……………




