其の六十三
後宮。
消灯の刻も過ぎ、太子妃・青尹の房間である、鐘粋宮から侍女が退室すると、扉の両側に立哨している錦衣衛が包拳の礼で以て侍女を見送った。
見送られながら侍女は廊下を行き、鐘粋宮から随分離れた所まで歩み進めてから、ふと振り返る。
今宵も侍寝の御声が掛からなかった。
最後に、殿下から御声が掛けられたのは何時なのか、それすら覚えていない程、無沙汰である。
侍女・戚雉は眉を顰める。
その髪に挿してある南天の簪が、戚雉の呼吸に合わせて煌めいた。
ある日の昼下り。
芙蓉と風香は湯屋の帰りに茶屋へ立ち寄り、店先の長椅子で小休みをしていた。
ふたりが共に湯屋へ行く事は、近頃では珍しい。
それ故、会話は大して多くなく、何となく気不味い雰囲気さえあった。
「…………姐姐。小雨は、何時かは、月夜楼に戻って来ましょうか?」
そんな中、ふと風香が、そう吐露する。
芙蓉は少し目を丸めて、そんな風香を見た。
「そうだな。今は、何とも云えぬ」
彼女の心境の変化には触れず、芙蓉はそう返した。
「……………」
膝の上、両手で包み込んでいる碗を見詰めながら風香は、先日の王陸との遣り取りを思い出していた。
彼と会話をし、心の蟠りが解けると共に、夏飛を楼から追い出してしまった事を悔やんだ。
「私は、自分が嫌いです」
蚊の鳴く様な声で、風香は云う。
「とうして、そう思うのだ?」
芙蓉は真っ直ぐに彼女を見、訊いた。
風香はちらりと横目で姐姐を一瞥し、
「童の如く、目の前の事しか見えず、他者に寄り添えずにいた事が、恥ずかしい」
そう答える。
「そうか」
云って芙蓉はふと、優しく笑んだ。
「今年、数えで十五。新造でもあるのに、齢と伴わぬ自身に、焦燥感さえ覚えるのです」
風香は辛そうに、もどかしく口にした。
「心が、齢と伴わぬ事は、まぁ良くある事だ。それこそ人間らしくて、私は愛おしく想うがな」
芙蓉の言葉、風香ははにかむ面を向け、姐姐を見る。
と、芙蓉の背後、数軒先に居る人物へ、風香の視線が移った。
正確には、その人物の髪に挿してある簪に止まったのだ。
え? あれは、あの簪は……………
「風妹? どうかしたのか?」
目に見えて狼狽する風香に気付き、芙蓉がそっと声を掛ける。
そして、彼女の視線の先を追い、芙蓉もその人物へ視線を向けた。
そこには、女中風情の女性が居る。
「あの女傭、知り合いか?」
視線を風香へ戻し、芙蓉はそう問う。
しかし風香は、彼女の声が耳に届かないのか、すっと立ち上がると、吸い込まれる様にその女中へ歩みを進めた。
その日戚雉は、使いの為に皇城を出て花京へ赴いた序でに、もう少し足を延して胡暗迄訪れた。
本通りに在る店の点心が青尹のお気に入りである為、外出する折りには幾度か顔を見せていた。
外から店内の様子を伺い、混雑具合を確認する戚雉へ、声を掛ける者があった。
振り返り見れば、まだ年若い妓女。そして、数歩遅れて、妓女がもうひとり。
言わずもがな、風香と芙蓉である。
突然、妓女に声を掛けられるとは想定外であり、戚雉は目を丸めた。
「不躾ながら姑娘、その髪に挿しておられる簪は、何処で入手されたのでありましょうか?」
風香は構わず、顔を強張らせながらにそう尋ねる。
戚雉は簪を指で触れ、
「何故、その様な事を御尋ねになられるので御座居ますか?」
当然訝しむ。
「………………」
芙蓉も不思議そうに風香を見た。
「姑娘の挿しておられる簪、その簪、大姐が馴染みの大爺から頂いたもの……………」
風香はそこ迄云って、はっとして口を噤んだ。
南天の簪は、そう珍しい物ではない。
只、玉花が月夜楼を去る日に拝見した事で、強く印象付けられたのだから、『南天の簪』というだけで、『大姐の簪』だと結び付けてしまっている節があったのは否めない。
「…………いいえ、何でもありませぬ。無礼な物言いを御詫び致します」
風香は云い、拱手の礼をする。
彼女のその様子を眺め、戚雉は眉を開く。
「とでもない事。どうぞ、御気になさらずに」
柔らかく笑み、風香の礼を解いた。
そう、この南天の簪に就いて、春琴太監も気にされていた。
なる程、合点がいった。そういう事であったのか……………
戚雉の顔から笑みが消え、黒い靄が広がって行く心を抱えながらに帰路を急いだ。




