其の六十二
王陸が小性として月夜楼に売られたのは、九歳の年であった。
当初は他の童同様、用人見習いで来たものの、年齢の割には高い教養と、端正な容貌で小性にさせられた。という表現が正しいか。
王陸の両親は既に他界している為か、妙に冷めており、この異常な環境に置かれても、然も当然の事でもあるが如く、受け入れた。
そんな彼を周囲の者達は気味悪がるが、楼主の陳茂叔は気に入った様である。
楼主の小性となった事で王陸は、妓女達の房間以外、楼内を自由に歩き回れた。
玉花と出逢ったのは、その頃である。
流石は太夫であり、見目麗しくも堂々とした、強い存在。それが、初見の印象だ。
その存在に畏怖していた王陸だが、太夫の強く堂々とした口調で紡がれる言葉の中に、入ったばかりの小性を気遣う心が見え隠れするのに気付いた時、彼女への見方も変わる。
玉花に、母の影を重ねてしまう。
王陸が月夜楼に来てから三月が過ぎた、春。
この頃になると、楼の人間関係も知れる。
玉花の一等贔屓旦那が、「ダーコォ」と称され、太夫を侍らすには余りにも若過ぎる男人だという事も知った。
そんなある日、珍しく玉花は月夜楼の外で逢瀬を楽しんだ。
これは何も特別な事ではない。他の高級妓女達ならば、良く聞く事ではあるが、玉花に関していえば初めての事であるだけだ。
相手が何処の旦那なのかは、当然楼主の耳に入る。そうでなければ、何か事が起った際に旦那の身も守れないからだ。
そして、何故この日、玉花が楼外でダーコォと逢ったのか、今でなら何となく分かる。
あの日以来ダーコォは、月夜楼は疎か、胡暗からも姿を消した。その事から、玉花が永久の別れを告げたのだと、そう考えられた。
当時の王陸にはまだ、男女間の情事なぞ、当然知らぬが故、柳暗花明という世界は、そういう所なのだろうと、安易に考えていた。
それ程玉花は気丈であり、決して弱音を吐く姿を見せなかった。
流石は太夫だと云えよう。
それから玉花は、周囲の反対を押し切り、夏飛を出産。
産後間もなくして、宴席へ返り咲いた。
妊娠発覚から約半年間、一切表には出されず、軟禁同様に押し込められていたにも拘らず、玉花太夫の人気は不動を誇り、楼主を閉口させる。
だが、夏飛が成長するに釣れ、徐々に大きくなる心の歪み。
父親似の夏飛の存在が、玉花の心を狂わせる。
壊れて行く太夫の心に触れ、王陸の心も乱された。
酒に溺れ、正体を失くして醜態を晒し、鴉片に染められて行く。
『太夫』から転落し、『妓女』でさえなくなる彼女を見詰めながら、王陸は、ふつふつと怒りを沸かせる。
その怒りの矛先は、ダーコォへ向けられていた。
『月夜楼』という世界で十二歳となった王陸は、これ迄、他の妓女達と共に玉花の事も眺めて来た。故に、太夫の背後にダーコォの影が居、その影に翻弄され、苦しんでいる事にも気付かない訳がない。
そして玉花の年季明けの日、それを耳にした春琴が祝いの為に、月夜楼へ姿を見せた。
その姿を見、王陸の心に蟠りが出来る。
春琴がダーコォ側の人間だからだ。
また、雪梨が新たに太夫となり、その御披露目行列の日と重ねられたのもあり、それに対して戸惑っていた矢先に春琴の出現である事から、王陸を暗い気分にさせるには充分であろう。
しかし彼は気持ちを殺し、楼主の代理として、春琴を持て成すのだ。
それから三年が経ち、現在。
一翔が云う様に、科挙を受けられる程の人物ならば、否、そうでないとしても、月夜楼の太夫を侍らせる程なのだから、豪商の子息やも知れぬ。何れにせよ、既に奥方を迎えていよう。
それでも、玉花を忘れられぬというのか。
今更、何を……………
王陸は軽く舌打ちをして、つと視線を上げた。
「…………見舞金の裏に、大爺が居ようが居まいが不問。だが、大爺の正体は、暴きたいな」
鬼気迫るものを感じさせる彼を見、一翔と子絽はぞくりとする。




