其の六十一
胡暗の北側に在る大楼、鈴宝楼の一室は今、微かに思い沈黙の空気に包まれていた。
その沈黙を破るが如く、廊下から声が掛けられた。
一翔が立ち上がって行き扉を開けると、まだ幼さが残る団員が、盆を手にして入り、卓上に蓋碗を三つ、盆に乗せた儘で置く。
そして、見知らぬ王陸に、緊張した面持ちで包拳の礼をした。
「止せ」
王陸が顔を顰めながらそう云うと、団員はびくりと躰を揺らす。
「こらこらこら王陸よ、赤蛇団の小男孩を苛めて呉れるな」
それに対して一翔は、苦笑しながら窘めた。
「小豆、行って良いぞ」
子絽も団員を解放する様に云った。
云われて団員は、拱手の礼もそこそこに、逃げる様に房間を出て行った。
「…………以前に云っていた見舞金の件だが、何か新たな情報を得られたのだろうか?」
また三人だけになり、王陸が静かに口を開いてそう訊く。
「あぁ……………」
子絽が視線を逸して言葉を濁す。
「悪いが、まだ何も掴めてねぇ」
きっぱりと一翔が答えた。
王陸は彼を見、そして視線を落として「そうか」と、呟いた。
「あのよ、その事だけど……………」
子絽が躊躇う様に口を開き、ふたりの視線を受けてから続ける。
「姐さんの客に、役人はいたか?」
「否、付いた事はないな。何故に?」
王陸はそう返して、訝しんだ。
「太夫てのは、並の男人をそうそう相手にして呉れねぇだろ? 姐さんが妓女の時に贔屓してたのが、太夫になった途端門前払いにされて、そんで逆恨みっつう事とか、そう考えてみたんだけどさ」
「確かに、妓楼は慾と嫉妬が渦巻いているからな……………」
そう云って王陸はつと顔を子絽へ向け、微笑した。
「しかし、そもそも大姐の俗名を知る者はいないだろう」
「いやいや待て待て。仮に姐さんの客に役人がいたとして、姐さんの俗名が『玉花太夫』の事だと気付いたとしてもだ、名簿から名を消すなんて大逸れた事するかよ。皇太子の鶴の一声で始まった慈善行為だぜ? そんなんしたら、文字通り首が飛ぶだろうよ」
ふたりの会話を聞きながら烏龍茶を飲んでいた一翔が、軽い調子で口を挟んだ。
王陸と子絽は「あ」と、彼を見る。
よくよく考えてみれば、その通りである。
役人如きが身の危険を顧みず、私怨の為だけに名簿に手を加えるとは、まず有り得ないだろう。
「……………」
ならば、誰の所業だというのか。
王陸は険しい顔で視線を下げ、蓋碗の中の烏龍茶を凝視する。
「おい、王陸。彼奴の齢は今年、幾つになる?」
そんな彼を横目で見、一翔がそう尋ねた。
「彼奴とは?」
「通称『ダーコォ』っつたか? 何処ぞの放蕩息子だと噂されていた、玉花太夫の贔屓客だ」
平然と口にする一翔の言葉に、王陸はぴくりと反応するも表に出さず、
「多分、二十歳は超えているだろう」
そう答えた。
「は? まさか、そのダーコォの仕業だって云うのかよ?」
子絽が目を丸めて一翔を見る。
「放蕩だと噂されちゃあいたが、飽く迄も噂だ。それに、あれ程の金遣いなら、間違いなく良い所の坊んだろうよ。
なら、科挙も受けるだろう。もしも、殿試まで行って及第し、第一等の状元ともなれば、今は上等官吏となってんじゃねぇか」
ふたりの視線を受けながらも、一翔は事もなげに云った。
王陸は、その言葉に就いて考え込む。
「………………」
ダーコォ大爺。
有り得なくもない。
そうでなければ、春琴を使って玉花の影を探る事はしまい。
その切っ掛けを作ったのは、白花の名で手放した簪だ。
鴉片に溺れた白花が、鴉片欲しさに玉花の簪を奪って典当舗へ流したのだと、春琴は語っていた。
そして、その後に起こった放火殺人、この放火が原因で、玉花と夏飛が暮していた公寓を中心に、計七棟が半焼或いは全焼した。
もしやダーコォは、この火災さえも白花が関わっていると、そう考えているのだろうか。
動機としては、弱くはない。
なれど……………
「…………否」
王陸がぽつりと云い、ふたりの視線を受ける。
「大爺は賢い御仁だ。例え上等官吏となったとしても、関与はしないだろう」
眉間に皺を寄せた顔をつとあげて、王陸はそう続けた。
「ま、何にしてもこれは、大哥に報告しとくか」
云いながら一翔は、徐ろ《おもむ》に煙管を取り出す。
子絽も「あぁ」と頷き、横目で王陸を見た。
「で? ダーコォの俗名は?」
訊かれたところで、彼は首を傾げるしかない。
「さぁ。帳簿には『大阿哥』としか記されておらず、楼の者は皆、それが当然としていたからな」
「あぁ、それに今じゃあ、胡暗にすら姿を見せてねぇし、探るのは骨が折れるか」
一翔は云って、紫煙を吐き出した。
【注釈】
◎典当舗・質屋
◎公寓・集合住宅




