其の五十九
夏飛は微睡む中、これ迄浴びせられた『負』の言葉に塗れ、埋もれ、息をする事さえ儘ならなかった。
「此奴の媽媽が女郎だから」
「男人に色目を使って」
「穢れた苦力みたいな女人」
「だから、あの孩子と拘っちゃいけないよ」
「身を落とした女郎だもの」
「ほら、その仕草、嫌らしいわね」
「これ見よがしに媚びているのよ」
「あの孩子も大人になれば、同じ道を行くだろう」
「……………此奴の媽媽が近所の男人達の気を引きたいから、わざと公寓に火を放ったってな」
そして、夏飛の記憶の奥底に沈殿しているものが、厭でも浮上する。
今よりも幼い記憶。
鬼と化した媽の姿………………
「っ!」
はっと覚醒した夏飛。
そして、そろりと周囲を見回す。
見知らぬ空間。
黒い夢の所為で心臓が高鳴り、憂愁としている心が、恐怖心へと変わった。
もう、どんな夢を見ていたのかさえ忘れ、唯、自身の置かれているこの空間が恐く、取り残された様な心細さに襲われる。
「…………小雨、起きたのか?」
そんな中、そっと声を掛けられた。
視線を向ければ、にこやかな表情の林清源が、この房間へ入って来る所である。
夏飛はびくりとし、身構えた。
「おや、忘れてしまったかな?」
そう語り掛けながら林は、夏飛の居る寝床の側へ歩を進める。
近寄って来る林を夏飛は、不安気に見詰めた。
「そう身構えずとも好い」
林はそう云いながら夏飛の目線に合わせる様に腰を屈めると、すっと右手を差し出し、握っていた手を開いた。
その掌には、小さな独楽が乗せられている。
「小雨、これが何か、分かるかな?」
「…………陀螺?」
夏飛は答えて、そして林に視線を向けた。
林はふと優しく笑む。
「小雨にあげよう」
「どうして?」
彼にそう云われるも、夏飛は訝しむ様に小首を傾げた。
「この陀螺は強い陀螺でな、負けた事がないのだよ」
「……………」
云われて夏飛は、林の手の中にある独楽を見詰める。
独楽には、小さな傷が幾つもあった。
夏飛はふいと視線を逸す。
「いらない」
「おや、何故に?」
林に理由を訊かれ、夏飛は顔を顰める。
「恐い」
「え? 恐い?」
夏飛の言葉に、林は目を瞬かせた。
「何故に、そう思うのかな?」
「たって……… 喧嘩させられるから。陀螺は、そうじゃないのに、喧嘩させられるのがかわいそう。だから、恐い」
「…………小雨は、そういう風に考えるのだね。
ならば矢張り、小雨に持っていて貰いたい。これ以上、この陀螺が傷付かない様にね」
暫し夏飛の顔を眺めた後、林はそう云って、左手で彼の右手を取り、その手に独楽を乗せると、柔らかく微笑んだ。
夏飛は手の中の独楽を繁々と見詰め、軈てそっと撫でる。
夏飛の居所について王陸は、迷いつつも芙蓉と風香へ明かした。
迷ったのは、人に告げた事で、何処でそれが漏れるとも知れないからだ。
それでも、云わなければ、無駄に心配するであろうから、だから王陸は告げたのである。
一方、その報告を受けた芙蓉は、雪梨に夏飛の居場所を告げる事はしなかった。
夏飛が身を置いている診所には、玉花も居る事を知っているからだ。
玉花が絡めば、雪梨の意向も変わるだろう。そうなれば、どの様な行動に移るか分からないが、悪い考えしか浮かばない。
「……………」
窓枠に肘を乗せ、嫋やかに身を凭せ掛けながら芙蓉は、溜め息を吐き、暮れなずむ晩春の空を眺めていた。




