其の五十八
花京の診所へ夏飛が担ぎ込まれた、その日の午後。
林清源医生が服薬の為に、玉花の病房を訪れた。
「………今朝方、何やら騒がしい様であったが、急患でもあられましたか?」
玉花の不意な問い掛けに、林はぴくりと反応した。
「あぁ……… もしや、起こしてしまったかな?」
そして、言葉を濁す様に返事をし、そう訊いた。
「それは、御構いなく。診所なのだから、致し方ない事です」
しっかりとした口調で、玉花は返す。
「そうかね」
心持ち安堵をし、そう林は云った。
陽が西へ傾き始めた頃、梅毒に罹った妓女の診察の為、林医生は月夜楼を訪れた。
診察を終え、帰り支度をしている彼の下へ、見送りの為に王陸が姿を現した。
林はそれを好機とし、それとなく彼を楼外へ誘う。
対して王陸は、もしや大姐に何かあったのか。と、懸念した。
林は彼の心中を察したが、敢えて何も語らなかった。
王陸は楼主に許可を取り、林と共に楼を出た。
茶房は、本通りから一本入った小道に在り、こぢんまりと落ち着いた雰囲気の店構えである。
蓋碗の蓋で茶葉を除けながら、一口茶を啜い気を落ち着かせてから、王陸が口を開いた。
「…………医生、私を連れ出したのは、もしや、大姐の容態に異変が生じたからでありましょうか?」
表情を変えずにそう訊いた王陸を見、林はふと笑む。
「いやいや、姑娘に何かあったという話ではない。近頃は寧ろ、気もしっかりとして来たからね」
「然らば……………?」
「うむ。今朝方、急患が担ぎ込まれてな」
そう云って、林も茶を一口含み、喉を潤した。
「急患で御座居ますか? その急患と私と、如何なる関係が?」
王陸は訝しみ、そう訊くが、はっと気付く。
「も、もしや、その急患というのは……………」
「そうだな。今、王陸の頭に浮かんでいるであろう孩子、小雨だよ」
「っ!」
林の言葉に、王陸はぎくりとした。
「だが、案ずるでない。小雨の症状は軽く、今は安定しておる」
林は、王陸を安心させる様に、穏やかな口調で云う。
「左様で、ありますか……………」
王陸は口の中で呟く様に返した。
「しかし、何があったのかね?
担ぎ込んで来た者達の口振りから、小雨は、例の火災のあった公寓に居たそうだが、小雨は夜な夜な出歩く癖でもあるのかね?」
林は顎に手をやり、困った様に眉を下げて訊く。
「………………」
王陸は暫し考え悩んだ末、これ迄の楼内での出来事を話した。
「ふむ、その様な事があったのか」
彼の話しを聞き、林は頷いてそう云うと、茶を呑み、そして、ふと笑んだ。
医生のその笑みに、当然王陸は訝しむ。
「これで納得したよ。先日、王陸が小雨を連れて来たいと云っていたのは、一目の再会ではなく、その儘、小雨を楼から出してしまおうと、そう考えていたのではないのかね?」
「否。今でならば、その考えもなくはないのですが………… あの時は、安易に、それこそ一目の再会だけを望んでおりました」
王陸は少し目を伏せて、そう返す。
「考えが改められたのは、今回の事が切っ掛けであると、そう申すのだな?」
林の言葉に彼は頷いた。
「なる程…………」
そして、林は難しい顔となる。
「解します。楼主様が棋大爺と、更に李大爺と密かに会われていた事は、不安である事この上御座居ませぬ。
事実、小雨自ら楼を出、その儘姿を晦ましても、何れは居所が明るみに出る事でしょう」
王陸はそこ迄云い、一旦言葉を切った。
「うむ。王陸の行動は見張られておる様だからの」
「はい。さすれば、医生にも御迷惑を御掛けしてしまいます。それが、心苦しいのです」
項垂れ、彼は云う。
「いやいや、そこはまぁ、案ずるではない」
王陸が懸念するも、林はあっさりとそう返した。
「は? それは、どういう…………?」
当然、王陸は目を丸めて彼を見た。
「ほっほっ……… ここは花京とはいえ、場末である。臑に傷を持つ者も少なからず訪れる所為か、妙に肝が据わってしまっての」
ふと表情を綻ばせて、林は云う。
「それは、心強く存じます」
王陸も釣られ、少しだけ口端を歪めた。
そして、彼の脳裏には、赤蛇団の面々が浮かんだ。
小雨を担ぎ込んだのも、赤蛇団の者だと聞く。
「姑娘と小雨を面会させるか否やは、また別として、こちらとしては、この儘小雨を預かっても差し支えぬぞ」
「…………それでは、この儘、小雨を御預け致します」
暫し迷ってから、王陸は林へ拱手の礼と共に頭を下げた。
林はそれに対して、目を細める。




