其の五十七
「あー、気が抜けたら、一気に眠気が来るな」
「あぁ、酔いも覚めたわ」
花京の診所を出た子絽と一翔は、そんな遣り取りをしながら帰路に就く。
胡暗の北側に在る鈴宝楼へ帰り着くと、眠そうな顔をした少年がふたりを待ち受けていた。
「おう、小男孩、どうかしたか?」
子絽が尋ねる。
「あふ……… えっと、さっきまで、王陸っていう書生風の男人が居たんすよ」
ひとつ大きな欠伸をしてから、少年はそう云った。
「王陸」と聞き、ふたりは顔を見合わせる。
「用件は?」
一翔が訊く。
「それが、えっと、火事のあった公寓で、孩子達と居た団の人間を捜してるって云ってましたけど………」
小首を傾げながら、少年は云う。
「あ? 火事があった公寓で孩子共とって」
「それって、俺らじゃね?」
再度、子絽と一翔は顔を見合わせた。
……………結局、夏飛の行方は掴めず、王陸は落胆しながら胡暗の本通りを歩く。
調度開店し始めた粥屋があり、腹が空いている事に気付いて、彼はふらりとその店へ入った。
注文すると直ぐに、干し貝柱の入った素朴な粥が運ばれて来、王陸は機械的にそれを食す。
「………………」
赤蛇団という組織の全貌を知っている訳ではないが、関わった者達の言動や考え方、先の玉花の件から見るに、齢五つの子に何か危害を加えるとは思えない。
ここに来るまでの間、王陸はそう自身に云い聞かせては、心を落ち着かせ様とするものの、矢張り不安は払拭出来ずにいた。
しかしもう、時限である。これ以上は楼を空けてはいられない。
王陸は無念の溜め息を吐いた。
人目を避けて裏口から月夜楼へ入った王陸は、廊下の先でばったりと風香と鉢合わせた。
「風香か、早いな」
未だ早朝と呼ぶに相応しい刻、大方の者はまだ寝ていよう。
「王陸殿こそ。それにその恰好、もしや、朝帰りなのか?」
外出着に身を包んでいる彼を、風香は怪しむ様に見た。
「ふ。既に新造となった身にしては、無粋な事を云うものだな」
軽く笑い、王陸はそう返した。
「……………」
風香はむっとして、口を噤む。
「……………そういえば、風香は近頃、小雨と不和であると、そう耳にしたが?」
彼女のその様子を暫し見詰めてから、王陸はさらりと尋ねた。
「っ!」
風香はその言葉に反応をし、彼を睨むと、
「それこそ無粋な事よ。王陸殿には関係ないでしょう」
そう返した。
「否、関係はあるだろう。風香は小雨と寝起きを共にしておるのだから、その小雨と不和となれば、自ずと営みに影響も出るだろう」
飽く迄も、王陸は無表情である。
「流石は王陸殿。一貫して、楼の営利の事しか考えておらぬのだな」
口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべる風香。
「今更」
王陸もふと笑い、当然と云わんばかりに返した。
「そうやって、力の無い女人から搾取して、いつか地獄へ堕ちれば好いわっ!」
風香は荒々しく云う。
「へぇ……………」
眼光鋭く、王陸は彼女を壁へ追い詰め、両手を壁に着いて逃げ道を塞いだ。
「地獄へ堕ちれば好いとは、風香も云う様になったものだな」
「……………」
威圧的な彼の眼を、風香は逸らさずに睨み返す。
「なれど、搾取するとは、聞き捨てならないな。楼は、君達新造以上の妓女に、格や歩合に見合った禄を支給している筈だが?」
王陸の視線は冷たい。
「…………ならば、何故、断りもなく、小雨の養育金も引かれる?」
「は?」
「否、勿論、引かれる理由は、解さなくもない。なれど、黙っている事が気に食わぬ」
彼女のその言葉に、王陸は目を見張った。
「否、待て待て。何の話しだ?」
「恍ける気? 何処までも底意地の悪い者だ」
「…………」
王陸はひとつ息を吐く。
「風香が、何処で何を聞いたのかは知らぬ。だが、その様な事実はない」
「否! 信じられない! ならば、小雨の養育金は、楼主様の慈悲だとでも云うのか?」
「ふ。無論、楼主様が身銭を切る筈がなかろう」
小さく笑み、王陸はそう云った。
「ならば、矢張り……………?」
「早合点するな。そもそも、無断でその様な事をする程、流石の楼主様も畜生ではないぞ」
「……………」
風香は黙し、王陸の次に続く言葉を待つ。
「小雨の養育金は、芙蓉姐姐の禄から出されている」
「っ! な、ま、まさか……………」
今度は風香が目を見張る番であった。
否、冷静になって考えてみれば、彼の言葉には得心がゆく。
そうなのだ、姐姐はそういう女人なのだ。そして私は、小雨と共に、その姐姐の庇護の下にあるのだ。
「っ!」
衝動的に風香は、王陸の胸倉を両手で掴む。
後悔と自省の念。
自身の欲望の為だけに、小雨を追い込み、追い出してしまった。
彼の胸倉を掴んだ儘、ずるずると崩れる様に両膝を着き、風香は唇を噛む。
そして、
「王殿、小雨を捜して……………」
震える声で、そう頼んだ。
そんな彼女を王陸は、唯黙って見下ろしていた。




