其の五十六
朝も早うから門を叩く音に、林清源は、もしや急患かと慌てて門を開けた。
門外に居たのは、子絽と一翔であり、一翔の腕の中にはぐったりとした幼子の姿。
「入られよ! 直ぐに診よう」
幼子の容態に林はふたりを急かし入れる。
診視房の寝台に寝かせた幼子の顔を確認し、林はぎょっとした。
「…………この孩子に何があったのかね?」
苦悶する幼子の顔を凝視した儘、林は背後に立つふたりにそう問うた。
問われ、ふたりは顔を見合わせる。
「何が原因か知らねぇけどよ、胡暗の火災があった公寓で、孩子共に絡まられていたんだよ」
そして、一翔が答えた。
「………………」
その言葉を背に聞きながら、林は顔を歪めて幼子、夏飛を見詰める。
この孩子は小雨か。と確信すると、診所の奥、病房に居る玉花の事が気になり、その方へ視線を向け様とするも、林は辛うじてその衝動を抑えた。
否、今は個人的感情よりも、目の前の患者を助けるのが先決だ。
林はふと息を吐き、気持ちを切り替えると、振り返ってふたりを見る。
「孩子の過呼吸を治めたい。手助けを頼めるかな?」
振り返った林のその表情は、医師のそれであった。
行方知れずとなった夏飛の影を追い、王陸は勘を頼りに、火災の遭った公寓跡地へ赴くが、そこに夏飛の形跡は見出せなかった。
住人達は、常時と変わらぬ様子であり、朝の忙しい喧噪が巷に広がっている。
「……………」
母の面影を想い、ふたりで暮していた場所へ来ると思ったが、小雨は来なかったのか?
王陸はそう思いながら、周辺を見回した。
修繕されぬ儘の公寓が、何とも心淋しい。
「おや」
と、そんな王陸に声を掛ける者があり、彼は振り返った。
「何処の書生かと思ったら、王陸じゃないか」
威勢好く話し掛けて来たのは、付近に数ある屋台のひとつに居る中年男性。
「御早う御座居ます。
肖さんも、こちらに屋台を出されていたのですね」
王陸はそう云いながら、屋台の男性へ近寄る。
「従来通りの商いじゃあ、今の時代、やって行けないからな」
からりと笑いながらに、肖は返した。
本通りに在る饅頭屋、ふたりの関係は、そこの主と常連客てある。
「何とも逞しいですね」
王陸も笑みを向ける。
そしてふと思い、
「肖さんは、今朝は何時頃からこちらに?」
そう訊いた。
「明け方からだな」
不意に訊かれ、肖は訝しがりながらも答えた。
「その時、何か変わった事はなかったでしょうか?」
「…………そういや、お前さんが今迄居た所で、孩子共が騒いでいたなぁ。まだ小さい子を取り囲んで、厭な雰囲気だったから止めに入ろうとしたら、そこへ調度、赤蛇の者がふたり通り掛かってな、収めてたよ」
暫し考えてから、肖はその時の出来事を語る。
「その、小さい子というのは、齢五つ程でしょうか?」
「そうだな、囲まれてて良く見えなかったけど、それ位の年頃だったかな」
「それで、その子は何処へ?」
もしや、その孩子は小雨ではあるまいか。と、逸る気持ちで王陸は訊く。
「さて、こっちも客相手しながらだったから、ちゃんとは見ていなかったからなぁ」
肖は腕を組み、至難顔でそう返した。
そこへ客が来た事で、肖は商売を再開し始めた。
もうこれ以上は情報は得られまい。と踏み、王陸はこの場を後にする。
そして、余り気は進まぬものの、赤蛇団の塒である鈴宝楼へ向うのであった。
………夏飛の容態が落ち着いたのは、陽も高くなろうかという頃だ。
穏やかに眠る夏飛を見下ろしながら林医生は、この事態を玉花に告げるか否や悩んでいた。
思い起こすのは、先日の王陸の言葉。
今日明日ではないが、近く夏飛を玉花と会わせたい。と、彼は云っていたが、それは、今この機会では絶対にないであろう。
「……………」
何はともかく、この事は王陸の耳に入れておくか。




