其の五十五
夏飛が出て行ったと聞いた芙蓉は、再度、雪梨の下へ赴こうとしたが、気を変えて王陸の房間に足を向けた。
戸外から声を掛けると、ややあってから返事があり、寝衣姿の王陸が眠そうな顔で出て来た。
彼のその様子を見、芙蓉としては当てが外れた思いだ。
「姐姐、この様な時刻に、何か御座居ましたか?」
そうであっても王陸は、心中を極力表に出さず、常時の無表情を造ってそう尋ねる。
「あぁ。其方に尋ねたい事があって参ったのだが……………」
芙蓉はそこまで云って言葉を切り、ふと息を吐いてから、改めて王陸を見やると、
「王陸は、ずっと房間に居たのだな?」
訝しむ様にそう訊いた。
「そうですが」
王陸が答えた時、芙蓉の背後を通る用人の姿を捕らえ、彼は僅かに眉を動かすと、姐姐を房間へ招き入れた。
芙蓉が自分の下へ訪れるという事は、他の者の耳に入れ難い用件ではなかろうかと、察したからである。
幸い、今廊下を通ったのは、まだ入ったばかりの見習用人だ。
勧められる儘、王陸と共に温突へ上がると、芙蓉はひとつ息を吐いてから、夏飛が居なくなった事を告げた。
「っ!?」
当然、王陸は想定外の話に驚き、そして眉間に皺を寄せる。
「先刻、房間へ戻ると、風妹がまだ起きており、そう告げられた」
芙蓉も眉間に皺を寄せながら云うと、王陸へ視線を向け、
「風妹の様子から、ふたりが悶着を起こしたのだろうと想像出来る。とはいえ、しかもこの時刻に、小雨が独りで楼を出るとは、どうにも信じ難い。
正直に云う。其方の所へ参ったのは、黒牡丹の大爺と楼主様の存在があり、もしや其方が、楼主様の命で小雨を手引きしたのではあるまいかと、そう疑ったからだ」
王陸の眼を直視して、彼女は包み隠さずに吐露した。
「左様で」
芙蓉の言葉を聞いても彼は、特別気を悪くする事もなく、静かに口を開く。
「ですが、残念ながらに、その件に私は関与しておりませぬ」
そうして王陸は右手を顎に掛け、暫し考える。
「………………」
その彼の様子を、芙蓉は見詰めた。
「……………小雨が姿を消した事を、他に知る者は?」
ややあってから、再度王陸は口を開き、そう尋ねる。
「否、他の者にはまだ、云っておらぬ」
「ならば、今暫くは、御内密にされた方が賢明でありましょう」
王陸にそう云われて、芙蓉の脳裏に雪梨の顔が浮んだ。
雪梨には、黒牡丹劇院の件では手を貸すと約束したが、矢張り、この件は伝えるべきではないだろう。そう思い、芙蓉は頷いた。
「そうだな」
そして彼女はふと、先に彼が云った言葉の内容が気になる。
「王陸。其方今、『その件』に関与しておらぬと申したが、『その件』とは、どういう意味だ?」
「ふ。そうですね。今宵、黒牡丹の方々が登楼され、楼主様が関係を深めた件……… とでも申しましょうか」
芙蓉の問いに王陸は微笑をし、遠回しにそう答えた。
「……………」
話しの要点を暈す彼を暫し見て、軈て、芙蓉は王陸の心中を察したかの様に、口端を歪めた。
きっと楼主様は、王陸にも告げずに、事を進め様としておるのだろうな。
詰まる所はそこである。
そう考えると、王陸の微笑も自嘲のそれに見えてしまう。
「ともかく、小雨の跡は私が追います故、姐姐はもう、御寝み下さいませ」
胸の内を探られる気不味さから逃れる様に云い、王陸は手早く身支度を整え始めた。
「あ? 否………」
彼のその言動を、芙蓉は意外に思った。
「王陸が小雨の跡を追う理由が分からぬ。そうまでして、其方に何の利があるというのか」
「何を申されます。私は月夜楼の小性、私の役目は、楼が円滑な営みを行われる様、それを守る事にて御座居ますよ」
王陸はそう応え、今度は含み笑をした。
「そうか…………」
芙蓉は頷き、それ以上は追及しなかった。




