其の五十四
曾て玉花が子の夏飛と暮らしていた公寓は、火災の被害に遭った儘打ち捨てられ、一月以上経った今でも、焼け落ちた姿を晒し続けていた。
その瓦礫の中で夏飛は、夜を明かす。
白々と明るむ空。
春霞が立ち、見知っている町並みは幻想的であり、夏飛を妙にぞくぞくさせた。
お空がこんなお顔をするのを、媽も知っているのかな?
そう考えると、夏飛は余計に、母を恋しく思うと共に、この光景を直ぐにでも玉花に見せてやりたいと、焦燥感でそわそわとする。
媽、今会いたいよ。お空が綺麗だよ。一緒に見たいよ……………
両膝を両腕で抱え込み、夏飛はその膝へ顔を埋める。
陽が昇り、妓楼が眠りに着く頃、胡暗はそろそろと目覚め始める。
殆どの庶民が朝食を屋台で済ませる為、早いものでは夜明け前から準備を始める屋台もあった。
営業を始めた屋台から人々は集まり、その大人達に混じり、家計を担う為に働く十歳程の子供達の姿も見られる。
その中のひとりの少女が、瓦礫の中に居る夏飛に気付いた。
「ねぇ、何してんの?」
少女に声を掛けられ、彼は顔を上げた。
その顔を見て少女は「あ」と声を漏らす。
「あんた、詩雨なの?」
怪しむ様に、少女は訊いた。
「詩雨」と聞き、他の子供達も夏飛へ視線を向ける。
この場に集まっている子供達は皆、火災が起こる迄近所に住んでいたから、詩雨と字で呼ばれた夏飛の事も、当然知っていた。
だが、子供達は少女同様、その正体を怪しむ。それは、夏飛が公寓で暮していた時、彼は女子の恰好であったから、誰もが彼をそうだと思い込んでいたが故、今、目の前に居る男子の出で立ちをした詩雨が、俄かには信じ難かった。
その好奇にも似た眼差しに晒され、夏飛は辟易ぎ、逃げ様とするが、少女に腕を掴まれて捕らえられた。
「何で逃げるの?」
「そんなの決まってるさ」
少女の言葉に、内ひとりの少年が鼻を鳴らしてそう云った。
「俺も知ってるぜ。火事は、こいつの媽媽が原因なんだってさ」
また別の少年が、夏飛を睨みながらに云う。
「え? そうなの?」
夏飛の腕を掴んでいる少女とは別の少女が、目を見張り、そう云った少年を振り返り見た。
「俺の媽媽が云ってたぜ。こいつの媽媽が近所の男人達の気を引きたいから、わざと公寓に火を付けたってな」
「気を引きたいって、何で?」
「こいつの媽媽が女郎だからだよ」
「何それ?」
「知らないけど、男人に色目を使うって、媽媽は云ってたぜ」
「そうそう、穢れた苦力みたいな女人達の事だって」
夏飛を囲んで、子供達の放つ言葉に呑まれ、夏飛の頭は混乱し、暗澹たる沼へ引き摺り込まれる様な感覚に襲われる。
今よりももっと幼い頃の記憶が、心の奥深くから頭を擡げ始め、夏飛を過呼吸にさせた。
「……………おいおい孩子共、朝っぱらから喧嘩か?」
そこへ、快活な声が飛んで来て、子供達はぱっとその方へ顔を向ける。
子供達が顔を向けた先に居たのは、子絽であり、その背後には一翔も居た。
このふたりが胡暗の顔役の一味である事を、子供達も知っている。
「もう行く時間なんじゃねぇのか?」
一翔にそう云われ、子供達ははっとすると、夏飛にはもう目も呉れず、ふたりに挨拶をしていそいそとこの場を後にした。
子供達を見送ってから、ふたりは夏飛の側へ寄る。
「お前、大丈夫か?」
子絽が声を掛けるも、夏飛は荒く呼吸を繰り返し、そして遂に意識を手放すと、その場に倒れ込んでしまった。
当然ふたりは驚き、逸早く一翔が動いて彼を抱き上げた。
「仕方ねぇ、医生の所へ連れて行くか」
「は? 医生って、林医生か?」
一翔の言葉を意外に思い、子絽は聞き返す。
「信用出来る医生が、他にいるかよ」
愚問だと云わんばかりに、一翔はそう云った。
「そうは云うも、あそこには今、あの姐さんが居るんだぜ?」
子絽は皆まで口にしないものの、未だ鴉片の影響が少なからず残っている「姐さん」と同じ屋根の下に、幼子を行かせる事に懸念した。
「ま、そこは医生が上手くやるだろうよ」
一翔はにやにやしながら、無責任に云う。
彼のその様子に子絽は苦笑するも、林ならば、図らずもそうするだろう。と、納得もする。
それにしても、次から次に面倒事を押し付けられ、林も難儀であろうと、同情してしまうのであった。




