其の五十三
風香に連れられて楼主の房間を訪れた夏飛は、値踏みする様にじろりと見られた事で、初めて大人の男に恐怖心を抱いた。
そして、その様な空間へ連れて行った風香に不審感を抱き、動揺をし、心身共に震え、失意の沼へ沈み込む感覚に襲われた事は否めなかった。
何時からだろうか。
夏飛に対して、風香の態度が余所余所しくなったのは……………
この夜も、宴席から戻った風香は、まだ起きている夏飛を一瞥するだけで、直ぐに床へと入ってしまった。
風香のその態度が恐ろしかった。
おなかがいたい……………
夏飛は無意識に、風香の肩へ手を伸ばし、指先で触れる。
「!?」
風香ははっとして、夏飛へ背を向けていた躰を捩り、顔を彼に向けた。
「何?」
そして、物憂げに口を開く。
「……………」
夏飛は黙し、唯、哀しげに彼女を見詰めていた。
風香は苛立つ。
「煩わしいわね。もう疲れたから寝たいのよっ!」
噛み付かんはかりに語尾を荒げる風香を、夏飛は愕然とした想いで見下ろしていた。
「……………」
暫く彼女の背を眺めていたが、軈て夏飛は力なく立ち上がると、静かに房間を出て行った。
彼が出て行くのを風香は背中で感じ、そっと半身を起こしながら振り返って、その扉を見詰める。
御手水処にでも行ったのだろう。
風香はそう高を括ると、また横たわり、目を瞑った。
しかし、夏飛は房間を出た切り戻って来ない。
風香がそれに気付いたのは、芙蓉が戻って来、新参妓女の茜紗が訪ねて来た事で目を覚ました時である。
普段、夏飛が使っている寝床は、一糸の乱れもなく、使用されていない事が一目で判った。
「っ!?」
風香は飛び起き、芙蓉へ知らせる為に次の間へ続く引き戸に手を掛けるも、その手を静かに引いた。
心配ない。小雨が楼を出る筈がないもの。
そう自身へ云い聞かせ、彼女は寝床に戻ったが、眠れない。
その内、芙蓉が房間を出る気配を、戸越しに感じられた。
……………房間を出た夏飛は、その儘、誰の目にも触れられる事なく、月夜楼を裏口から出て行った。
大通りへは行かず、裏道を歩き、記憶を頼りに、母と過ごしていた曾ての公寓を目指す。
晩春の夜は肌寒く、寝衣の儘の夏飛には辛かろうが、それさえも感じていないかの様に、彼は歩みを進める。
媽媽に会いたい。
母が何故、自分の側に居ないのかなぞ、夏飛は知らぬし、本当の理由なんて知りたいとも思わない。只々、夏飛は本能の儘、母を求めているのだ。
……………雪梨の房間から自室へ戻った芙蓉は、灯火も点けず、薄暗い室内に佇み、窓から外界を眺めている風香に気付いてぎくりとした。
「っ! 驚かすな風妹」
正体を知り、ほうと息を吐いてそう云うと、彼女は風香へ歩み寄る。
「どうした? 眠れぬのか?」
風香の横に立ち、同じ様に外界を観てから、改めて彼女の横顔を見やり芙蓉は訊いた。
その問に、風香は顔を歪める。
そうして、
「小雨が、出て行きました」
呟く様にそう告げた。
「はっ!?」
彼女の言葉に衝撃を受け、信じられないという様に、芙蓉は見開いた目を風香へ向ける。
だが風香は、窓の外へ顔を向けた儘で、視線すら動かさなかった。
「風妹? 其方はそれで、何故に悠長な態度で居られるのだ?」
怪しむ様に芙蓉は尋ねる。
「っ!」
風香は唇を噛み、初めて視線を動かして、横目使いで芙蓉を捕らえた。
「小雨が出て行きたかったのでしょう! 故に私は、小雨の意を尊重したのですが!?」
声を荒げて風香は云う。
「……………」
そんな彼女を芙蓉は、複雑な気持ちで見詰め、軈て、深く息を吐いた。
「そうか」
そう一言零し、芙蓉は風香に背を向けると、房間を出て行こうとする。
それに気付き、風香は呼び止めた。
「姐姐! もしや、小雨を捜すというのですか!?」
背中に浴びせられた言葉に、芙蓉はゆっくりと振り向いた。
その表情は、哀れみに満ちている。
「冷静になれ風妹。小雨は未だ五つの小男儿だぞ」
「解しております!」
再度、風香は声を荒げ、自身のその声にはっと我に返ると、芙蓉から顔を背けた。
「そうか………」
彼女のその様子を見詰めながら、芙蓉は静かに一言云い、今度は後ろ髪を引かれる事なく、房間を出て行った。
芙蓉が出て行ってしまうと、風香はその場にずるずると崩れる様に両膝を着き、床を睨め付ける。
自身の選んだ行動を後悔するからか、それとも別の理由なのか、それすら判らず、なれども風香は、堰を切った様に慟哭した。




