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愁い花  作者: 冷水房隆
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其の五十二

 黒牡丹ヘイムゥタン劇院の面々を見送った後、自室の房間へ向う雪梨シュエリィは、途中で茜紗チェンシャアと遭った。

 その瞬間、彼女の脳裏に芙蓉フーロンの姿が浮んだ。

 何の興行もないのに、棋本チィペンが看板役者達を率いて登楼した事に、雪梨も不審に思っていた。

 「…………茜妹チェンメイ

 それ故に、雪梨は彼女を介して芙蓉を呼ばせる。

 茜紗が芙蓉の房間へ向うのを見送ると、宴席の後片付けの為に忙しく廊下を行き来する用人のひとりを捕まえ、自身の房間に酒と肴を用意する様頼んだ。

 旦那衆が引いた後、寝酒をする妓女も少なくない為、用人は二つ返事で引き受ける。

 房間へ戻った雪梨は、窓を半分開けると、その窓枠に腰掛けて眼下に広がる大通りを眺めた。

 「……………」

 黒牡丹の大爺衆が来楼しておった事、当然芙蓉も気付いておろうな。

 そう思いながら、煙管に刻み煙草を詰めていると、

 「太夫。御酒と肴を御持ち致しました」

 廊下から声が掛けられた。

 彼女の返事に扉が開けられ、先程とは別の用人が酒器一式と肴を乗せた盆を手にして入り、卓上へそれを置く。

 その様子を眺めながら雪梨は、煙管の雁首に火を入れ、細く煙を吐いた。

 「太夫。竈の火も、落としてしまいますが……………」

 まだ入ったばかりと思しき少年用人は、雪梨を振り返って恐ず恐ずと口を開いた。

 「そう、構わないわ」

 雪梨は薄っすらと笑い、頷く。

 少年用人が退室すると、入れ違う様に芙蓉が訪れた。

 芙蓉は雪梨に迎え入れられ、勧められる儘に卓へ着いた。

 「………太夫から酒の席に呼ばれるとは、如何なされましたか?」

 雪梨も卓に着くのを待ってから、彼女は、怪訝さを胸に隠して、そう尋ねる。

 「たまには、其方と呑みたいと思うての」

 その言葉に対して雪梨はふと笑み、煙草盆を引き寄せると、灰落としの縁に煙管の雁首を当てて火を落とした。

 そして、盃をひとつ芙蓉の方へ置き、酒を注ぐ。

 芙蓉は彼女の一連の動作を、唯黙って眺めた。

 「さ、一献」

 そう云われ、芙蓉は恭しく両手で盃を上げ、一気に空ける。

 「太夫、回りくどいのは性に合いませぬ。故に、こちらから……………」

 盃を静かに置き、再度雪梨を見据えて、芙蓉は口を開いた。

 雪梨は瞳に笑みを浮かべ、続く彼女の言葉を待つ。

 「御呼びになられたのは、小雨シャオユィの事でありましょう」

 「ふふ。どうしてそう思うの?」

 「今宵、何の前触れもなく黒牡丹の面々が来楼されておられました。黒牡丹の長であられるチィ大爺と楼主様の仲は存じております。故、先の事もあり、もしや楼主様は小雨を黒牡丹へやってしまうのかと、そう危惧しての事にて」

 芙蓉は雪梨から視線を外さず、また、淡々とした口調で述べた。

 「ほう。矢張り其方は勘が鋭いの」

 雪梨は少し驚いた様に芙蓉を見、そして、満足そうに再度笑む。

 「太夫がそう云うという事は、そうなので御座居ますね?」

 芙蓉は険しい表情で身を乗り出す。

 「直接、楼主様から聞いた訳ではあらぬが、恐らくそうなのであろう」

 雪梨はそう云い、彼女の盃に酒を注ぎ、上目遣いで彼女の顔を見ると、

 「なれど、私は反対じゃ」

 意外な程に強く結んだ。

 「っ!」

 その言葉に芙蓉ははっとする。

 「楼主様は一見、好々爺ではあるが、その言動は飄々としており掴み所のない御仁。それは、其方も存じておろう?」

 雪梨は酒を一口呑み、そう訊いた。

 芙蓉は頷く。

 「此度の事には当然、王陸ワンルゥも水面下で働いておろう。故に、彼奴あやつを我ら側へ引き込もうと考えておるのや」

 ふと薄笑いを浮かべ、雪梨は云う。

 「……………」

 それを聞き、芙蓉は考える。

 王陸は勿論楼主様側の人間だ、だが、それは表の顔であろう。そうなのだ。あの子は、大姐が絡めば、どの様な手を使ってでも大姐を守るだろう。

 彼女の脳裏には、玉花ユィホワが行方知れずとなった際の事が思い起された。

 「………然れども、彼奴は一筋縄では行かぬ。

  この際だから明かすが、彼奴の弱味を握ろうともしたのだが、こちらが見縊っておったのじゃな、上手く事は運ばずに終わったのや」

 自嘲気味に雪梨は苦笑する。

 「……………」

 彼女のその様は珍しく、芙蓉は暫し無言で見詰めた後、漸く笑みを見せる。

 「王陸も元服を迎える年とはいえ、未だ十五。その王陸に翻弄されるとは、太夫らしくありませぬな」

 「どういう意味か?」

 怪訝そうに雪梨は聞き返す。

 「こちらの札を総て晒け出せませぬが、黒牡丹の件に関して云えば、思惑が一致致します故、手を御貸し致しましょう」

 彼女の問いには答えず、芙蓉はそう云って、彼女の盃へ酒を注いだ。

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