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愁い花  作者: 冷水房隆
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其の六


 「風香フォンシャン、そこで何をしている?」

 くりやの入口に立っている禿を見付けて、彼女と同年である少年が、咎める様な口調で声を掛けた。

 風香はびくりと躰を震わせ、その少年を振り返り見る。

 「王陸ワンルゥ殿……」

 と、そこへ、間が良いのか悪いのか、厨番の用人が徳利を二本持って出て来、彼もまた、『王陸』と称された少年の存在に気付いてばつが悪そうな顔をした。

 王陸は二年前に楼主の小姓として月夜ユエイェ楼に入り、今やその存在は楼主と同等であり、用人は勿論の事、妓女達にも煙たがられている。

 「それは何?」

 厨番の手にしている徳利を一瞥し、不快な表情で王陸は風香に訊いた。

 「あ、あの、これは………」

 云い淀む風香。

 厨番は、そんな彼女に無理矢理徳利を押し付け、逃げる様に厨内へと戻った。

 その場には、風香と王陸だけが残された。

 「まさか、風香が呑む訳じゃないよな?」

 王陸は彼女を追い詰める様に、そう訊く。

 「いえ、あの………」

 風香はへどもどする。

 「…………」

 暫く黙って風香の挙動を見ていたが、やがて王陸は溜め息を吐いた。

 「太夫なのだろう? 近頃御酒の量が増えていると、楼主様から伺っている」

 そう云われてしまうと、風香も観念をし、頷く他ない。

 王陸が云う様に、玉花ユィホワの飲酒量は増えていた。特に先日、雪梨シュエリィと廊下で鉢合わせてからは、誰の目から見ても明らかに多量であった。

 「これはおれが持って行く」

 王陸はそう云い、風香の手から徳利を引き取る。

 「そんな。大姐ダァジェに叱られてしまいますっ!」

 風香は慌ててそれを取り返そうと、手を伸ばすが及ばない。

 「宜しいか風香。太夫は楼の看板、その太夫が失態をすれば、してや御酒の所為ともなれば、見世の沽券こけんにもかかわるんだぞ!」

 王陸はぴしゃりと云い放つ。

 それは正論であり、風香は恥ずかしそうに俯いた。

 そんな彼女を余所に、王陸は廊下を進んで行く。

 風香は我に返り、慌てて彼の後を追った。


 厨の前からふたりの姿が消え、その他に誰の姿もない事を確認し、まだ稚さの残る妓女・梅花メイホワがこそりと厨から出て来た。

 危うく風妹と鉢合わせになる所だったわ。しかも、王陸殿までなんて………

 梅花はそう思い、冷や汗を拭うと、そそくさとこの場を離れた。


 「………太夫、大概になさいませっ!」

 玉花の部屋へ入るなり、王陸は開口一番にそう怒鳴った。

 突然、小姓が入って来たかと思えば唐突に怒鳴られ、流石の玉花も唖然とする。

 しかし、それも束の間、途端に玉花は呵々と笑った。

 「これは王陸、如何したというのだ?」

 玉花の着いている卓上には既に、二本の徳利が置かれていた。

 王陸はそれを認め、大股に近寄って行き、手にしていた徳利を乱暴に卓へ置く。

 「あら? 王陸が持って来て呉れたのね」

 少し酔いが回っている玉花は、妖艶な笑みを向けた。

 「今宵これより、チィ老大爺ラオダァイエがお見えになられるというのに、太夫は何をなさっておられるのですか!?」

 王陸は渋い顔で、叱る様にそう云った。

 「何って、大した事ではないわ。妓女が酒気を帯びて客人を迎えるなぞ、日常的な事ではなくって?」

 上目遣いで彼を見、玉花はころころと笑う。

 「近頃の太夫の飲酒の量は、度を越えておると、そう云っているのです」

 尚も王陸は食って掛かる。

 そんなふたりの遣り取りを、入口に突っ立っている風香は、はらはらとしながら見守っていた。

 「心配して呉れるとは、何とも痛み入ること」

 玉花はそう云い、口元を綻ばせた儘で盃を空ける。

 「………そうです、心配しているのです。太夫は月夜ユエイェ楼の看板なのですから」

 暫し間を置いてから、王陸は真顔でそう返した。

 「太夫、斉老大爺がお越しになられました」

 そこへ、廊下から声が掛かる。

 「今参る」

 玉花の言葉に反応し、風香が戸を開けた。

 戸の外には、少し年輩の用人が居、跪いて太夫が出て来るのを待っている。

 玉花は立ち上がり、戸の方まで行ってから、つと振り返ると、

 「肝に銘じておくわ」

 王陸にそう云い残す。

 

 しかしこの夜、最悪の事態が起こった………

 

 常時の様に男女が逢瀬を楽しむ穏やかな空気は、用人の叫び声で脆くも崩れた。

 「誰かあるっ!?」

 大きな騒ぎはその一声だけであったが、楼内は不穏な雰囲気に包まれる。

 幾人かの用人が廊下を駆けて行くも、他の旦那衆も去る事ながら、妓女達にも動揺が伝わらない様、細心の注意を払っての行動。


 この時、風香は玉花の部屋に夏飛シアフェイと居、騒ぎにはまだ気付いていなかった。

 異変に気付いたのは、大股に廊下を進んで来る跫音を耳にした時だ。

 その跫音の異様さに夏飛は怯え、風香に抱き着いた。

 「だ、大丈夫です、大丈夫ですから」

 風香は、自身にも云い聞かせる様に云い、夏飛を抱き締める。

 と、突然、何の合図もなく戸を勢いよく開け、用人がひとり入って来ると、いきなり夏飛の手首を掴んだ。

 今まで見た事もない用人の形相を目の当たりにした夏飛は、恐れおののいて風香の衣を握る手に力を込める。

 「待って! 小爺シャオイエをどうする気ですかっ!?」

 風香は慌てて用人の手を取り、夏飛から引き離そうとするが、よわい十二の少女の力では成人男性の力に到底及ぶ筈もない。

 用人は取り付く風香を容赦無く蹴り倒し、無理矢理に夏飛を抱き上げた。

 「太夫が暴れてんだっ! 孩子がいしの面でも見りゃあ、ちったぁ落ち着くだろうよっ!!」

 用人はそう捲し立てる。

 その間にも夏飛は、風香を求めて泣き叫ぶ。

 「後生です! どうか、どうか小爺にはそんな大姐の姿を見せないで!!」

 風香は倒れた儘、必死に用人の足へしがみ付いた。

 「黙れ風妹フォンメイ! こりゃあ楼主様の言付けだ! お前にとやかく云われる筋合いはねぇ!!」

 再度風香を蹴り着け、用人は怒鳴ると、厭がり、暴れる夏飛を横抱きにして部屋を出て行った。

 去り行くその背を見、風香は自身の非力さや無力さに大粒の涙を零しながら、口惜しさに床を掻くのだった。

 

 

 

 

 

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