其の四十九
楼主の使いで出ていた王陸は、月夜楼に戻って来て驚いた。
近頃では珍しく、黒牡丹劇院の看板役者らが登楼しているからだ。
役者達が来楼しているという事は………
王陸ははっと気付き、大股で楼主の房間へ向う。
そして、房間の一歩手前で足を止めた。
風香が夏飛を伴って、その房間へ入って行く場面に遭遇したからだ。
「……………」
今、あの房間には楼主の他に、劇院の長も居るであろう。なら、夏飛が呼ばれるのは頷けるものの、風香も一緒なのは何故なのか。
首を傾げ掛け、王陸の脳裏に、数日前の芙蓉から受けた言葉が過ぎる。
あの時芙蓉は云ったのだ、「風妹が小雨と過ごしたくない」と。
ならば、風香の意志で、小雨を楼主様の下へ連れて来たのか……………
王陸はそう考え、軽く吐息を漏らした。
「王殿、失礼します」
不意に声を掛けられ、彼はその方向へ視線を走られる。
そこには、厨の用人が徳利と酒盃を盆に乗せて立っていた。
「それは、楼主様の所へ?」
「はい。そうですが……………」
王陸の問に、用人はきょとんとする。
「では、己が御待ち致しましょう」
彼はそう云い、用人へ両手を差し出した。
「え? ですが……………」
「御構いなく。それに今、房間では大事な話しの最中でありますれば」
訝しがる用人へ王陸はそう云い、半ば強引に盆を受け取った。
「そういう事でしたら、王殿に御任せします」
用人は云い、他にも仕事が立て込んでいるらしく、拱手の礼もそこそこに、踵を返して足速に廊下を進み去った。
用人が立ち去ると王陸は、扉を見やる。
しかし、何故楼主様は黒牡丹の長と面会する事を、己に伝えなかったのか。
己が反対すると考えての事か? それとも、別に理由があっての事だろうか……………
彼はそんな事を考えつつ、房間へ声を掛ける。
…………風香と共に入って来た夏飛を見、黒牡丹の長である棋本は目を見開き、そして細めた。
「何と愛らしい」
「どうだね?」
思わず漏らした棋本の言葉を聞き、陳茂叔は昂然たる面持ちでそう尋ねる。
「誠に、この孩子は男子なのか」
棋本は半ば信じられないという様に、繁々と夏飛の顔を覗き込む。
「嘘偽りなく、男子だ」
陳茂叔は苦笑しながらに応えた。
この、初老の男ふたりの遣り取りを、夏飛は怯えた瞳で見詰める。
と、そこへ、
「楼主様、御酒を御持ち致しました」
王陸の呼び掛ける声が届いた。
その声を聞き、陳茂叔は意外そうに扉を見やり、軈て、声の主を招き入れる為に応えた。
扉が開き、酒器一式を持って入って来た王陸は、常時の様に無表情である。
「失礼致します」
王陸は頭を下げ、盆を卓へ置くと、棋本へ向けて拱手の礼をした。
「王陸か。半年振りかな?」
棋本はにこやかに口を開いた。
「御無沙汰しております」
拱手の礼の儘で返し、拱手を解いてから彼は、楼主へ視線を向ける。
「私は、退座した方が宜しいでしょうか?」
普段なら空気を察して行動する王陸にしては珍しく、楼主の言葉を求める様に訊く。だが、その眼に浮かぶ色には、退座を拒む意が込められており、半ば強迫めいていた。
「否、好い」
王陸の視線に負け、陳茂叔はふと息を吐き、留まる事を許可する。
「承知致しました」
そう応えて彼は、西洋の長椅子に座る楼主の背後へ立った。
そしてそこから、風香の心中を探る様に視線を向ける。
風香は、王陸の登場を予期していたが、いざ対面してしまうと、心境は落ち着かずにざわ付いた。
彼女にとって夏飛は弟の様な存在であった。それは今も変らない。と、想ってはいるものの、そうかと訊かれれば、頷ける自信がない……………
夏飛が生まれた頃は、純粋に「姉」だと胸を張って云えただろう。だが、妓楼の中で育ったからか、慾も執着も多く強くなった今は、母を恋しむ夏飛に嫉妬心が芽生え、彼の所為で、正当に貰える禄が間引かれていると知らされ、風香は夏飛を疎ましいと、心に冷たく重いものが増すのだ。
「……………!」
彼女は王陸の視線に気付き、つと彼を見る。
王陸は常時の、何を考えているのか解らない瞳を風香へ向けていた。
その瞳は彼女にとって、心中の暗い部分を見透かされている様で、風香は視線を逸した。
王陸殿は楼主様の小性、楼主様の采配に異議は唱えぬやろう。
そう思うと、風香の胸が、意外にもちくりと痛んだ。




