其の四十八
王陸が浪基らに跟けられてから、数日後。
この日、月夜楼へ久方振りに登楼したのは、黒牡丹劇院の看板役者の面々。
彼らの登楼で、近頃沈んでいた楼内も華やいだ。
しかし芙蓉は、この登楼を不審に思っていた。
それは先日、楼主が、夏飛を京劇院等へやりたい。と、そう耳にしたからだ。
「……………」
偶然とは思えぬ。
そんな事を考えながら廊下を進んでいると、役者のひとりと鉢合わせた。
「これは、靱榔様。善くぞ御出で下さいました」
芙蓉は妓女らしく、にこりと笑み、万福の礼で以て挨拶をする。
「あぁ、貴女は確か、芙蓉と申されましたか。玉花太夫の妹妹………」
靱榔と呼ばれた役者は、ふと顔を綻ばせた。
彼は旦と称される女形であり、その所作は女性よりも女性らしく、また雅であった。
「宴席に呼ばれる事は稀でありましたのに、良く覚えて下さいましたの」
芙蓉は靱榔に笑みを向けつつも、戸惑いながらにそう返す。
「ふ、玉花太夫が年季明けを迎える迄、私は、哥さんに付いてでしか登楼しませんでしたからね。ですが、私個人としては、玉花太夫を御贔屓にしておりました」
小さく笑い、靱榔はそう云うと、すっと芙蓉に近寄り、
「この事は、御内密に………」
耳元でそっと囁いた。
「ほう、これは、惚気られましたな」
芙蓉は横目で彼を見、目を細める。
「靱榔大爺」
靱榔が芙蓉から身を離した時、彼を呼ぶ声があり、ふたりはその方へ視線を向けた。
声を掛けて来たのは梅花であり、彼女は、靱榔と共に居るのが芙蓉だと気付くと、明白に渋い顔をし、足速にふたりへ近寄る。
「大爺。雪梨太夫が御待ちで御座居ます」
梅花はそう云いながら、靱榔の右腕に両腕を絡めた。
「!」
それを見て、芙蓉は顔を顰め、
「梅妹、姐太夫の客人に対して、その様な振る舞いは頂けぬぞ」
そう窘めた。
「芙蓉姐姐、宴席に呼ばれなかったからと、嫉妬されるとは御見苦しい事ですわ」
梅花は口角を上げ、にやりと嗤って返す。
「何と、戯れ言を」
その言葉に、芙蓉も思わず苦笑した。
「そうですね」
暫くふたりの遣り取りを傍観していた靱榔が、静かに口を開いた。
「新造に好まれるのは喜ばしい事ですが、場所柄を弁えないといけませんね」
云いながら彼は、優しく梅花の腕を解く。
梅花ははっとして、顔を赤らめて靱榔を見上げた。
「それでは、靱榔様。また何れかの機に」
彼らの様子を見、再度万福の礼を以て芙蓉はそう云うと、何の未練もなく、その場を後にする。
矢張り、玉花太夫の妹妹であるな。
去って行く芙蓉の背中を見送りながら、靱榔はふと微笑む。
同じ頃、楼主の房間では、陳茂叔と黒牡丹劇院の院長である棋本が額を合わせていた。
「……………それで? お主が推すのは、ここの小男孩なのかい?」
「否、小男孩ではないが、訳有の孩子だ」
陳茂叔は普段の好々爺ではなく、恐ろしい程に真顔でそう返した。
「齢は五つと聞いたが、本人を見なくては何とも云えぬ」
棋本は腕を組み、眉間に皺を寄せる。
「今、こちらに向かわせている」
陳茂叔がそう云っていると、調度廊下から声が掛けられた。
「お入り」
楼主の言葉に応え、扉がすっと開き、風香が夏飛を連れて入って来た。
挿入句
◎新造・見習い妓女




