其の四十五
その日。
月夜楼を出て、白蟒蛇河に架かる大橋の袂で、王陸は尾行に気付いた。
だが、何者に跟けられているのか迄は、残念ながら判らない。
「………………」
暫し考えながら、王陸は大橋を渡る。
跟けられている以上、安易に大姐の所へは行けないな。それに、今後の事もあるのだから、ここは正体を暴くべきか。
そして、背後に気を配りつつ、王陸は大橋を渡り切り、花京は没中門地区へ入った。
没中門は、謂わば繁華街である。
自然な足取りで往来を歩み進めながら王陸は、適当な横道を見付けてその方へ折れると、足を速めて建物と建物の間へ入る。その場に置かれている芥塵を入れる木箱等を足掛かりにし、建物の二階部分の凹凸に足を掛けて尾行を遣り過ごす。
通りへ目を向けていると、焦りながら通り過ぎて行くふたつの影が一瞬だけ見えた。
「っ!!」
王陸としては、その一瞬だけで充分である。
今のは、浪基殿と奎至殿か。
彼は顔を顰めつつ、地面に降り立った。
王陸の頭の中には、月夜楼の人間関係図が総て取り込まれており、その力関係も把握している。
あのふたりを手駒として動かしているのは、恐らく杭宙哥哥だろう。ならば、雪梨太夫の差し金で己を尾行しているのか……………
だが、何故?
己が大姐と繋がっていると、そう感付かれた?
「………………」
暫し自問自答をし、王陸は口角を上げる。
気付かれる訳がない。
自負するも、それはそれでまた疑問が残る。
王陸はひとつ息を漏らし、通りへ出た。
そして、
「何用でありましょう?」
浪基と奎至の背中へ、そう問い掛ける。
怒気を含んむ聞き覚えのある声に、ふたりはぎょっとして振り返った。
「小性殿!」
「陸っ!」
その正体を知り、ふたりは思わず声を上げる。
「人に跟けられるとは、心外です。それに、気持ちの好いものでもありませぬね」
ふたり、主に浪基を見据え、王陸は再度口を開いた。
「な、何の事だっ!?」
咄嗟に浪基は上擦った声で返し、引き攣った笑みを見せて、肘で奎至を突く。
奎至はやれやれといった顔で浪基を一瞥してから、
「陸の思い違いだろう。俺らは野暮用で来たんだけど」
王陸へ視線を向けて、そう云った。
「……………」
抜け抜けと云い退けるな。
冷めた視線を奎至へ送るも、王陸はふと微笑む。
「なる程、左様でありましたか。ならば、こちらが無粋でありました」
云って王陸は拱手を作り、頭を下げた。
「あ、いや、何、何もそう畏まらなくても好いぞ」
浪基はぎこちなくそう云いながら、両手を忙しく胸の前で振る。
そして、
「そ、それより王陸、お前は何でこっちに来た?」
妙な空気を払拭しようと、そう尋ねた。
「こちらも野暮用でありまして」
王陸は返す。
「いや、そうではなく、この道だと診所から遠退くぞ」
浪基は笑みを見せながらに云った。
「っ!」
途端、王陸の顔から笑みが消え、奎至も右手で顔を覆い、内心浪基を蹴りたくなった。
またしても、厭な空気が流れる。
「………浪殿、それは、どの様な意味で云われておるのでしょうか?」
暫しの沈黙の後、王陸が静かな、それでいて重みのある声色で訊いた。
「え?」
当の浪基はきょとんとする。
奎至はひとつ息を吐き、ふたりの合間に入った。
「済まん、陸。以前に、お前が林医生の診所へ行く姿を見掛けてな、てっきり今日もそうなのだと、勝手に思ってしまったんだよ」
「そういう事でありましたか」
王陸は眉を開き、そう応えた。
だが、当然ながら王陸は、猜疑心を取り払った訳ではない。
そして、先の浪基の発言で、跟けられていた理由も大方判明した様に思われた。
多分彼らは、己が診所で何をしているのか、或いは、誰と会っているのか探っているのだろう。
「………っ!」
王陸はそう考え、はっとする。
もしや、診所の庭で大姐と居た所を見られた? 笠を被った大姐の正体を探っているのではあるまいか。
それに気付き、そろりとふたりの表情を盗み見る。
林医生の人柄から知るに、安易に患者の個人情報は漏らすまい。だから己の跡を跟けたのだな。
「………陸」
呼ばれて王陸は我に返る。
「野暮用は良いのか? 俺らはもう行くけど」
奎至がそう云いながら、浪基の背中を押す。
「あ、では、ここで失礼致します」
ふと笑い、王陸は応える。
「じゃあな」
奎至もからりと笑い、浪基を促して、本通りとは逆の方向へと歩みを進めた。
ふたりの背中を見送る王陸。
絶対、杭宙哥哥に怒られるのだろうな。
そう思うと、ふたりの背に向けられた視線に、哀れみの色を宿さずにはいられなかった。




