其の四十二
芙蓉が王陸の下へ訪れた、その翌日。
楼主に関した予定と、特別な宴席がない事を確認した上で王陸は、暇を頂戴すると、昼過ぎに月夜楼を出た。
目的地は無論、花京に在る林医師の診所だ。
玉花が身を置かせて貰っている部屋は、元は長期治療が必要な患者及び、重篤患者の為の病房の一室。
その白を基調とした、清潔感溢れる病房の寝台に居る玉花は、珍しく機嫌も好さそうに微笑み、王陸を迎えた。
「おや、来たのか小陸」
だが、痩躯で顔色も蒼白い姿は、正しく病人である。
王陸は侘しい感情が沸き、暫し言葉も出ずに彼女を見詰める。
彼が、珍しく心を揺さぶらせたのは、玉花が口にした「小陸」の呼称が原因であろう。その呼称は、王陸が月夜楼に入楼したての頃の愛称だ。
今、目の前に立つ彼は、玉花には幼い「小陸」に見えているのか。
それが、侘びしかった。
ふと王陸は、玉花の肩越しから望む、窓外の景色て視線を向ける。
雲ひとつない青空が、そこには広がっていた。
まるで、今の玉花の心情を映し出しているが如く。
王陸は表情を和らげた。
「如何でしょう? 庭へ出てみませぬか?」
そう誘いの言葉が、王陸の口を衝いて出、彼自身も驚いた。
「あら、宜しいこと」
玉花はその誘いに両手を合わせ、少女の様に笑う。
何の負の感情もなく、穏やかに笑う彼女は、それこそ何時振りだろうか。
それが、唯唯嬉しい。
王陸は思わず破顔し、それを隠す事さえ忘れる程、心の底から悦喜が湧き上がる。
久しく陽の下へ出ていない玉花の躰を考慮して、王陸は用意した竹の編笠を被らせ、縁台に出た。
柔らかい陽射し、頬を撫でて吹き行く微風。
「のどかだのう」
春の雰囲気を全身で感じ、玉花はそう呟くと、優雅な身の熟しで露台に腰を下ろした。
それは、何処から見ても町の女人には見えず、長年培われた立ち居振る舞いであり、矢張り玉花は『太夫』なのだと、改めさせられる。
王陸は、玉花の隣り、ひとり分を空けて腰を下ろし、空を見上げた。
「誠に、のどかでありますね」
そんな玉花と王陸の様子を、診所の垣根の外から覗き見る者があった。
月夜楼の用人、浪基だ。
浪基は、この診所の庭でのふたりの様子を、月夜楼で待つ、杭宙の耳へ入れた。
「………で? その女人は何者なのだ?」
「いえ、それが、笠を深く被っており、その面は確認出来ておりません」
「もしや、小性の色か?」
杭宙は前のめりになり、目を煌めかす。
「あ、いえ、御言葉ではありますが、それはないかと………」
おずおずと浪基は否定した。
「そりゃあ、どういう了見だ?」
すんと真顔となり、杭宙は訊く。
「面は見ておりませんが、女人の身の熟しから鑑みて、小性殿よりもずっと、年嵩のある者かと」
「………………」
浪基の言葉を聞き、杭宙は考える。
その女人、母親か? 否、小性の母親は死んだと耳にしたな。
ならば、誰だというのか?
「………っ!」
ある考えが脳裏を掠め、杭宙ははっとした。
その女人もしや、玉花大姐ではあるまいか。
「なる程」
それならば辻褄が合うと、彼はにやりとする。
「杭哥哥?」
浪基は彼の顔色を窺う。
「その女人が、何故に林医生の所に居るのか、探って参れ」
杭宙は顔を上げ、正面から浪基を見、再度命じる。
小性が足繁く通っているのが大姐の下ならば、それはそれで面白い。




