其の四十一
「………時に、近頃楼内で王陸の姿を見ぬ時がありますが、それは、何故にて御座居ましょう?」
用事で楼主の下を訪れた折り、雪梨が尋ねた。
「そうなのだよ太夫。先日なぞ、皇城の鐘が鳴る時分にも戻らなんだ」
彼女の言葉に触れ、想い出した様に楼主は溜め息を吐いた。
「まぁ、閉門の時分にも?」
雪梨は大袈裟に驚いて見せる。
城門が閉じられるのは、午後七時だ。
「しかし、とはいえ、楼内での役割はこれまで通り、しっかりとやっておるからな、少しばかしの息抜きも必要であろう。
あれも元服の年であるしの」
楼主・陳茂叔はそう云って、ふと笑う。
「何を仰るのですか楼主様! 元服とはいえまだ十五、悠長に甘やかしておる場合ですか!?」
雪梨は卓に両手を付き、前のめりに興奮して云った。
「しかしのう太夫、王陸の事だ、そう後ろ暗いところもなかろう」
陳茂叔は苦笑する。
「ならば、宜しいのですがねぇ」
雪梨はそう返し、口元を歪ませた。
認知はしていたが、これ程迄、王陸に甘いとはな。
楼主の間を出た所で、雪梨は鼻を鳴らした。
それにしても、王陸は何処へ出掛けておるのやら、少々気になるの。
雪梨はそう考え、そしてふと思い付いて笑む。
これは、王陸の泣き所を握れるやも知れぬな。さすれば、こちらの味方に引き込めるか。
王陸は楼内の誰に対しても態度を崩さず、飽く迄も、中立な立場を維持している。
その彼は、楼主の小性なのだ。取り込めば、雪梨の足場は更に安定となり、地位を誇示する事も出来よう。
高級妓女である太夫を、この時世、何処の妓楼でも持て余していた。
月夜楼の楼主、陳茂叔は特に吝嗇なので有名だ。その楼主に寵されなければ、何時切り捨てられるか、それが不安の種である。
険しい表情で廊下を進む雪梨に、声を掛ける者があった。
見れば、房間用人の杭宙だ。
「太夫、御機嫌斜めな御様子ですね」
「ふふ……、不機嫌な私に、態々声を掛けるのは、杭宙殿だけだわ」
思わず苦笑をし、雪梨は云う。
杭宙は用人の中でも古参であり、それこそ雪梨が入楼する前から、月夜楼に仕えていた。
「そんな事もないでしょう。例えば、小性殿も、気にせず声を掛けるかと思いますがね」
笑いながら、杭宙は返した。
「小性殿」とは、云わずもがな王陸の事であり、用人達は愚弄も込めて、陰でそう呼称していた。
「あぁ、王陸か………」
その名を聞き、雪梨は顔を顰める。
彼女の態度に、杭宙は心中を察した。
王陸は楼主の小性であると共に懐刀だ。故に、用人も妓女も彼を煙たがり、疎ましいと感じているのだ。
「………あれは我らを莫迦にしておるからな、こちらの心も汲まぬのやろ」
雪梨は云い、口元を歪める。
「ま、何にせよ、あれは非の打ち所がありませぬしな」
杭宙は苦笑い。
「あ、そういえば」
「ん? どうされました?」
訊かれて、雪梨は彼に意味有りげな笑みを見せ、一歩近寄る。
「杭宙殿、彼奴の泣き所を知りたいとは思わぬか?」
「それは、面白そうですね。何です?」
杭宙はにやりとして聞き返す。
「杭宙殿も気付いておろう、近頃彼奴が、何処ぞへ出掛けておる事を」
「ほう、なる程、その行き先を探るのですね?」
「やってみぬか?」
「それは、良い退屈凌ぎとなりそうですね」
くつくつと、ふたりは嗤う。
それから三日後。
雪梨と杭宙が、その様な謀を立てているとは露知らず、王陸は暇を頂き、常時の様に花京の診所へ向かった。
その跡を、杭宙の手の者である、浪基が追う。
そして浪基は林医師の診所での庭で、想定外の光景を目撃した。
垣根の隙間から目にした先には、王陸と一緒に露台に座る女性。
その女性は、日除けの為にか深く笠を被っており、その正体は暴けない。だが、女性の身の熟しからして、もしや何処ぞの御内儀かと、そう推測する程に、優雅で気品に溢れている。
「!?」
あの女人は、一体誰なのだろうか?
補足
◎花京・易華の首都
○林・月夜楼のお抱え医師




