其の伍
時は過ぎ、夏飛は二才となった。
この頃になると、夏飛は楼内をちょこまかと走り回り、風香は元より、用人の男衆も手を焼く程だ。
そんな夏飛なもので、妓女達にも人気であり、楼内を活気付ける。
それでも客入りの時刻となれば、聞き分けも良く部屋へと戻るから、楼主からは特別咎められる事もなかった。
だが、本来ならば出産を許される筈のない世界、中には嫉妬をし、その存在を疎ましく想う妓女もいる事は否めなかった。
月夜楼の次期太夫と囁かれ、事実玉花に次ぐ程の妓女である雪梨。
彼女は玉花よりも六歳年若く、そして、玉花を目の敵にしていた。
入楼した当初、既に初見世を済ませ、人の目を惹き付ける絢爛たる玉花に憧れてもいたが、旦那衆の多くが、当然の様にこの妓女に靡く様を見、軽い嫉妬が大きく膨らみ、今では敵視する程になったのだ。
玉花と雪梨が相反する事は末端に迄知れ渡っている為、極力ふたりが顔を合わせぬ様にと気を配っていた。
「これは、大姐」
「あら、雪梨じゃないの」
それでも、時として顔を合わせてしまう事もある。
この日は雪梨の馴染みの旦那が常時よりも早く着くという事で、準備の為に廊下を進んでいる際、手水に立っていた玉花とばったり鉢合わせをしてしまったのだ。
「………時に大姐、今宵の老大爺は、何方なのでしょう?」
不意に雪梨はそう訊いた。
「ふ、不躾な事を訪ねるのね」
玉花は少し笑い、そう返す。
「近頃大姐のお相手は、孫老大爺と張老大爺それに斉老大爺、何れも大店の御隠居ばかりですね」
雪梨は、棘を含んだ物言いをする。
彼女が何を云いたいのか、大体の予想は出来た。
「そうね、有難い事だわ」
だから玉花は、飄々と躱す。
「そろそろ、年季が明ける頃でしょう。なのに聞けば、身請けを総て断っているそうではありませんか。年季明け、大姐はどうなされるおつもりなの? もしやもしや、子連れ夜鷹になられるおつもり?」
くつくつと勝ち誇った様な愉快な嗤いが込み上げて来、雪梨は、その佳麗な顔を歪める。
「まあ、それもまた一興ね」
玉花は鰾膠もなく、そう返答した。
「流石は大姐、負け惜しみも一品ですこと」
袖で口元を覆って雪梨は笑うが、その眼に笑みは見られない。
「それこそ、負け惜しみに聞こえてよ?」
玉花は、やんわりとした口調で返した。
それが雪梨の癇に障り、横目で玉花を睨む。
「大姐、貴女その内、足を掬われますわよ。太夫の座は、誰もが狙っているのですから」
雪梨はそう云い一息吐くと、口端を歪めた。
「そもそも、大爺が来楼しなくなったのも、大姐の自尊心が高いからじゃなくて?」
彼女のその言葉、玉花はころころと笑う。
「何が可笑しいの!?」
雪梨は思わず声を荒げた。
「太夫になりたくば、私を踏み越えてでもなれば宜しい。それがこの花柳界の道理なのだから。
なれど、ダーコォ程の男人を太客に出来たのは、後にも先にも私だけ。ダーコォが今、来楼しなくなったといえどもね。お気の毒様」
嫌味のない笑顔で玉花はそう云って、この場を後にした。
雪梨は、去って行く太夫の背中を、口惜しそうに歯軋りしながら見送った。
ダーコォの正体、無論玉花だって知らない。だが、時折見せていた気品溢れる雰囲気と、教養の高さは、普通の貴息達とは異彩を放っていた様に感じられたのだ。
そしてそれが、ダーコォからの身請けを断った、理由のひとつである………
居住部屋へ戻ると、夏飛が気持ち好さそうに眠っていた。
窓際の腰掛けに腰を下ろし、窓を開ける。
冬の香りを纏った風が、部屋の中へ流れ込む。
もう、秋も終わるのね。
そう思い、振り返って我が子を見た。
父親似の我が子の寝顔に引き寄せられる様に、夏飛の側へ腰を下ろした。
秋が終わり、冬が過ぎて春となる。
一歳とは、何と早い事か。
心の何処かでダーコォの来楼を待ち侘びている自分に気付き、玉花は自身を揶揄する様に小さく笑った。
だがそれも束の間で、我が子を見ていると切なくなり心が乱れ、玉花はゆっくりと立ち上がり、部屋を出て行くのであった。
それから数日後に、事件は起こった。