其の四十
桃の花も終わり、芍薬が咲き始めて庭を彩る晩春の頃。
王陸は暇を見付けては、花京の診所へ足を運び、玉花を見舞っていたが、この頃になると、その玉花の様態もいよいよ怪しくなる。
縁側に腰を下ろし、芍薬を眺めながら王陸は、深い溜め息を吐いた。
「!」
と、廊下を進んで来る跫に、彼は我に返った。
この跫は、小雨だな。
そう思いながら視線を向けると、果たしてそれは、夏飛である。
「あ………」
夏飛も王陸の存在に気付き、足を止めた。
その表情は心做しか、困惑している様に見受けられた。
「小雨、何をしておる?」
王陸は立ち上がり、そう訊いた。
「……………」
夏飛は答えず、ふと視線を逸らす。
「何だ、口が利けなくなったのか?」
態と王陸は意地悪く、再度口を開いた。
幼児でありながらも夏飛の容貌には、母である玉花の面影がちら付くが故の、王陸のその態度だった。
うっかり気を抜くと、玉花を見るが如く、複雑な心中が顔に出てしまいそうだからだ。
彼のその態度に、当然夏飛は萎縮する。
月夜楼に居る男衆の中で、夏飛に話し掛けるのは王陸のみだ。たが、常に彼の態度がこうである為か、夏飛は懐く事はなかった。
否、近頃の夏飛は、芙蓉であっても風香であっても心を閉ざしてしまっている。それは、端から見ても分かる程だ。
「………小雨は日頃、何をして過ごしている?」
暫し夏飛の様子を見、ひとつ息を吐くと、王陸はそう訊いた。
夏飛は視線を落とし、そして「文を」と、小さく一言答える。
「は? 文? 文って、小雨は文字が書けるのか?」
思ってもいなかった単語を聞き、王陸はそう返して夏飛の顔を覗き込み、ふと想い出す。
年季明けで月夜楼を出た玉花は、公寓で暮らしながら、近所の子達に書法を教えていたのだ。
楼とは違い、母子の時間も多く有るだらう。
「その文は、誰に宛てて認めているのだ?」
「媽」
おずおずと夏飛は答える。
その答えを聞き、王陸はしゃがみ込むと、夏飛と目線を合わせた。
「小雨は、媽媽に会いたいのだな?」
彼の問いに、夏飛は控えめに頷いた。
「そうか………」
王陸は夏飛の様子を見、難しい顔をする。
先日、玉花と会った際、確かに彼女は「会いたい」と口にした。
しかしそれは夏飛の事ではなく、記憶の奥に埋もれた、まだ幼き弟達の事を想っての言葉だという事は、無論、王陸は知らない。
知らないが故、玉花が夏飛の存在を未だ気に縣けているのだと信じ、彼女の気力を保つ為にも王陸は、彼を母に会わせたいとも考えたのだが、五才の幼子を、鴉片で正気を失っている母に会わせるという事は、人道に反する行為ではないか、夏飛の心に一生癒えない傷を残してしまうのではないか、そう懸念するのであった。
「………王陸、暫し宜しいか?」
悶々とする日々を過ごしていた彼の下に、ある日芙蓉が訪ねて来た。
「これは芙蓉姐姐、どうぞ御入り下さい」
王陸は快く、彼女を迎え入れる。
芙蓉を温突へ上がる様に勧め、自身も上がると、
「如何なさいました?」
そう尋ねる。
「大姐と、小雨の事で参った」
何の躊躇いもなく、芙蓉は云う。
「御伺い致します」
王陸としても、その言葉に驚きもせず、耳を傾けた。
「その前にまず、其方が近頃、暇を見ては外出しておるのは、大姐の下へ足を運んでおると、そう解釈しても宜しいか?」
「はい。その通りで御座居ます。
無論、楼主様や他の者達には、秘しておりますが」
相変わらず王陸は、顔色も変えずに、表情もなく答える。
「ならば教えて貰いたい、その後の大姐の容態を」
芙蓉も冷静に、そう訊く。
「大姐の御容態は今、非常に厳しいもので御座居ます」
「………………っ!」
彼の言葉、芙蓉の心臓がぎくりと震え、背中に冷たいものを感じた。
「芙蓉姐姐」
王陸は改まり、
「もしや、小雨を大姐の下へ置く御つもりでは?」
訊いた。
「………そうだ」
間を置いて、芙蓉は頷く。
「ですが、姐姐は拒んでいたのではありませぬか? それなのに、何故?」
王陸は鋭い視線を彼女へ向けた。
「無論だ。
だが、小雨が大姐に会いたがっておるのだ」
心做しか、芙蓉の声が震えている様に聞こえた。
「………それだけで御座居ますか? 他にも理由が御ありなのでは?」
暫し彼女のその様子を見詰めてから、王陸は静かに口を開いた。
「!?」
彼の洞察力に感服し、芙蓉はふと微笑んだ。
「矢張り王陸だな。
実を申せば、風妹の意向である」
「風香が?」
意外な名を聞き、王陸の無表情が崩れる。
「先日突然、風妹が口にしたのだ。小雨と過ごしたくない、と………」
険しい表情となり、芙蓉はそう云った。
「あの、風香が………?」
王陸は信じられない想いで、芙蓉の顔を見詰めた。
勿論彼だって、真実はどうあれ、夏飛と風香の噂を耳にしていた。
そのふたりに最も近い存在の芙蓉から聞いたのでは、信憑性の度合いも変わって来、真実味も帯びて来るのだ。
「それでだ、其方の意見が聞きたい」
芙蓉も王陸の顔を見詰め返し、返事を求めた。
「………………」
しかし、王陸は難しい表情の儘、直ぐには口を開かなかった。
◎温突・焚口で火を燃やし、床下に設けた煙道に煙を通し床を温める。床暖房。




