其の三十九
年が明けて、初見世を済ませた風香が、見習い妓女である新造となって久しいこの日、戌の刻で宴席から退すると、同じ新造の梅花もまた、別の宴席から出て来た所であった。
風香は無言で、片膝を軽く折り、万福の礼をする。
「あら、風香か」
梅花は横目で彼女を一瞥し、一言そう云って、廊下を進み行く。
その背を見て、風香も、彼女とは反対方向へ歩みを進めた。
「………ねぇ、風香」
と、唐突に声を掛けられ、風香は立ち止まり、振り返る。
梅花は半身に構え、上目遣いで彼女を見ている。
「何事でありましょうか?」
風香は訝しむ。
梅花は近寄り、
「そういえば、知っておるのか?」
小声でそう切り出した。
「何の事でしょう?」
人を喰った様な彼女の態度に、風香はつい、刺々しい口調で聞き返す。
「風香も新造となり、目に見えて禄を貰えておろう」
「えぇ、頂いております」
「その禄が、総てだと思っておるのか?」
口元を歪め、梅花は云う。
「それは、どういう事でありましょう?」
風香は再度訝しんだ。
「禄の内、負債を引かれているのは当然の事、それとは別に、小爺の養育金も引かれておる事は、知らなんだか」
「なっ!?」
意外な言葉に風香は、云うべき言葉も見付けられない。
「おや? 知らなんだか。それは、野暮であったのう」
梅花は口元を袖で隠し、憐れむ様な視線を風香へ送った。
「そ、その様な話は、初耳でありますが………」
あまりの事に、風香は声を震わせる。
「ふふ……、楼主様は慳吝だからの。
それにしても、風香も大変だのう。小爺を押し付けられたみとうなものだものね」
梅花はそう云いながら、更に風香へ歩み寄り、
「可哀相になぁ」
彼女の耳元に口を近付け、ねっとりとした口振りで囁く。
風香は反射的に、囁かれた左耳を手で覆い、梅花を横目で見た。
新造は普通、他の新造達と共に『搨搨処』と呼ばれる大部屋で寝起きをしているのだが、風香は夏飛の世話役を買って出た為、芙蓉の部屋に寄居している。
その部屋に戻った風香は、既に就寝している夏飛の寝顔を見、梅花から云われた言葉を考える。
芙蓉姐姐も、その事を知っているのだろうか?
知っていたとしたら、何故、教えて呉れぬのか?
否や。
知らぬのだ。
知っていたら、必ず教えて呉れるだろう。
「……………」
夏飛の無邪気な寝顔。
愛おしかった。
だが今は、可愛さ余って憎さが百倍とでもいおうか、単純な感情だけで夏飛を見られない。
幼子が自然と母を求める事は、当たり前の事なのに、風香もそれを理解出来るのだが、どうしても、母を恋しむ夏飛の心理に彼女は、嫉妬してしまうのだ。
それが故に、正規で貰える筈の禄の内から、夏飛の養育費が引かれているという事が、何ともいえず、気持ちに蟠りが出来てしまった。
「………小雨はもう、私を好きではないの?」
眠る夏飛へ風香は、瞳を潤ませながらも、険しい表情でそう問い掛けた。
しかし、当然ながら、その答えは返って来なかった。
登場人物説明
○風香・玉花の元禿
○梅花・雪梨の元禿
○芙蓉・月夜楼の芸妓
○夏飛・玉花の子




