其の三十八
春琴は意を決した様に一息吐き、重苦しい沈黙を破る。
「………私が、白花という女人の名を初めて耳にしたのは、胡暗の典当舖である」
「典当舖で、御座居ますか?」
意外な事に、王陸は聞き返し、その主人の顔を思い浮かべる。
「左様。
先達て、新たに迎え入れた女庸の髪に挿していた簪を、小爺が気にされておられましたので、購入先を追った所、その典当舖に行き着いたのだ」
軽く頷き、春琴は明かした。
「女庸」とは、女中の事である。まさか侍女とも云えず、苦肉の策でその称号を用いた。
「その簪というのは、ダーコォ様が玉花大姐に贈られた品なので?」
王陸にとって女庸の称号など気に留める様子もなく、それよりも、矢張りダーコォの存在に思わず眉を顰める程、意識するのである。
「恐らく、小爺は何も語らぬが、私はそう感じ取った次第」
「その、簪を典当舖へ持参したのが、姑娘だと……………?」
「左様にて」
春琴は、今度は大きく頷いて、
「大姐へ贈った品が何故、白花という者の手に渡ったのか?
先日こちらで、黎竪が目撃したという白花大姐の様態から鑑みれば、玉花大姐から簪を奪い、金銭に換え、鴉片購入に充てたのだろうと、そういう考えに行き着いた」
そう、言葉を続けた。
その結論に至るまでに、玉花と白花を同一人物だとも考えていたが、鴉片の影響が尋常でない事に、別人物だと断定したのである。否、そうであって欲しいと切に願っていた。
「………………」
春琴の話しを聞いた王陸の心中は、何とも複雑である。
彼としては、今更ダーコォが玉花に拘って貰いたくないのだ。それ故に、黎竪がこの診所を訪れ、不慮にも玉花と遭遇した際、その存在を隠そうと咄嗟に彼女の俗名である「白花」と呼んだのだから。
王陸はつと顔を上げ、春琴を直視する。
「その事は、ダーコォ様も存じておられるで御座居ますか?」
「既に報告済みである」
春琴は頷く。
「では、本日春大爺がこちらへ参られたのは、姑娘に……………」
王陸の言葉の途中、もの凄い物音と共に、林であろう男の短い悲鳴が飛んで来た。
当然、春琴と王陸は驚き、顔を見合わせる。
「王陸! 来て呉れ!」
必死に呼ぶ林の声に我に返り、ふたりは瞬時に立ち上がると、急いで廊下へ出た。
王陸は迷う事なく、玉花が居る部屋の方へ駆けた。春琴はその跡を追う。
春琴が跡を追っている認識はあったが、構わず王陸はその部屋へ駆け込んだ。
「っ!?」
駆け込んだものの、玉花の様子を見た瞬間、躰が凍り付き、王陸はその場に立ち止まる。
後続の春琴が止まりきれずに、王陸の背中に衝突されても、彼は惚けた儘、彼女に釘付けとなっていた。
物が散乱した部屋の片隅で玉花は蹲り、その周辺には血が飛び散っている。
玉花の症状は、一進一退。否、或いは、悪化の一途を辿っている様にも診られた。
「………これは……………」
この現状を見た春琴も、凍り付き、息を呑む。
「お、おぉ、王陸!」
ふたりの出現に気付き、困り果てた顔の林。
そこで初めて、王陸は我に返った。
「医生、何が起こったのですか!?」
「何が癇に障ったのか、急に興奮し始めてな、そうして倒れ込んで、吐血をしてしまったのだよ」
林は、「いやはや」と云う様に頭を振り、
「薬を処方して来るから、暫し視ていて呉れるかな」
その言葉を残して、林は退室した。
「もしや、大姐は、手の施し様がない程に、最悪の状態だと?」
林の後ろ姿を見送り、春琴が口を開き、そう訊いた。
彼の脳裏には、先刻往来で擦れ違った、二人組の男の会話が蘇る。
「白花姐さんも、そう長くはねぇな」確かにそう云っていた。そしてこの、白花大姐の様態を見ても、その命は風前の灯火……………
「………爺、春大爺!」
王陸の声に、春琴は我に返り、反射的に彼へ視線を走らせた。
「春大爺、姑娘もこの様な状態であります故、今日の所は御引き取りの程を、どうか」
王陸は眉間に皺を寄せ、皆目十五の少年には見えぬ程の険しい表情で春琴を直視しつつ、そう云った。
「……………」
春琴は、何と返せば良いのか、言葉が見付からず、暫し彼と見詰め合う。
嗚呼、そうだな。
彼としても、興味を持ったものの、そこまで執着する女人ではないのだから、今直ぐにでもこの場から離れる気ではあった。
だが、何かがきになり、この場から、更にいえば、白花から眼が離せずに居た。
ふたりが視線を合わせる事刹那、呻き声があり、玉花がゆっくりと首を擡げる。
「っ!」
その面を見た春琴は、ぎくりとした。
化粧気も血の気もない面は、頬の痩けた老婆である。
老婆の面を持つ白花は、口の回りに血を付けて、少女の様にころころと笑う。
それが、何とも不気味であった。
白花という女人はもしや、玉花大姐やも知れぬ。と、心の何処かで思っていたが、これで一掃された。
それ程、玉花の容相は変わり果ててしまったのだ。
白花が玉花とは別人だと知った安堵感から、春琴はふと口元を緩める。
「あい分かった。今日の所は引こう」
彼のその言葉に、王陸もまた、ほっと息を吐く。
王陸としては、今のこの玉花の姿を、ダーコォ側の人間に知られたくはなかった。これ以上、踏み込まれたくはない。
想いの女人は最期まで、美しい方が良いに決まっている。
春琴の言動から、現実の白花から玉花の影が見付けられないと察し、王陸は安堵する反面、胸がちくりと痛んだ事も否めなかった。
日が西に傾き始めた頃、漸く玉花の容態が安定した。
「王陸よ、帰らなくて大丈夫なのか?」
この時刻になっても、王陸が玉花の側から離れようとしないのを気にして、林は訊いた。
「楼主様より休みを頂いておりますので、問題はありませぬ」
顔も向けずに、王陸はそう答えた。
「そうか。まぁ、好きにしなさい」
林は彼の様子にひとつ息を吐き、その言葉を残して部屋を離れた。
「……………」
王陸は、玉花が横たわっている寝床に頭を凭せ、横目使いで彼女を眺める。
開けられた窓からは時折、春の強い風と共に、桃花の香りも吹き込んだ。
鼻孔を擽る桃花の香りは、王陸の胸を締め付けるのであった。
◎典当舖・質屋




