表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愁い花  作者: 冷水房隆
37/87

其の三十八

 春琴チュンチンは意を決した様に一息吐き、重苦しい沈黙を破る。

 「………私が、白花バイホワという女人の名を初めて耳にしたのは、胡暗ホゥアン典当舖てんとうほである」

 「典当舖で、御座居ますか?」

 意外な事に、王陸ワンルゥは聞き返し、その主人の顔を思い浮かべる。

 「左様。

  先達て、新たに迎え入れた女庸じょようの髪に挿していた簪を、小爺が気にされておられましたので、購入先を追った所、その典当舖に行き着いたのだ」

 軽く頷き、春琴は明かした。

 「女庸」とは、女中の事である。まさか侍女とも云えず、苦肉の策でその称号を用いた。

 「その簪というのは、ダーコォ様が玉花ユィホワ大姐に贈られた品なので?」

 王陸にとって女庸の称号など気に留める様子もなく、それよりも、矢張りダーコォの存在に思わず眉を顰める程、意識するのである。

 「恐らく、小爺は何も語らぬが、私はそう感じ取った次第」

 「その、簪を典当舖へ持参したのが、姑娘グゥニアンだと……………?」

 「左様にて」

 春琴は、今度は大きく頷いて、

 「大姐へ贈った品が何故なにゆえ、白花という者の手に渡ったのか?

  先日こちらで、黎竪リィシュウが目撃したという白花大姐の様態からかんがみれば、玉花大姐から簪を奪い、金銭に換え、鴉片購入に充てたのだろうと、そういう考えに行き着いた」

 そう、言葉を続けた。

 その結論に至るまでに、玉花と白花を同一人物だとも考えていたが、鴉片の影響が尋常でない事に、別人物だと断定したのである。否、そうであって欲しいと切に願っていた。

 「………………」

 春琴の話しを聞いた王陸の心中は、何とも複雑である。

 彼としては、今更ダーコォが玉花に拘って貰いたくないのだ。それ故に、黎竪がこの診所を訪れ、不慮にも玉花と遭遇した際、その存在を隠そうと咄嗟に彼女の俗名である「白花」と呼んだのだから。

 王陸はつと顔を上げ、春琴を直視する。

 「その事は、ダーコォ様も存じておられるで御座居ますか?」

 「既に報告済みである」

 春琴は頷く。

 「では、本日春大爺がこちらへ参られたのは、姑娘に……………」

 王陸の言葉の途中、もの凄い物音と共に、リンであろう男の短い悲鳴が飛んで来た。

 当然、春琴と王陸は驚き、顔を見合わせる。

 「王陸! 来て呉れ!」

 必死に呼ぶ林の声に我に返り、ふたりは瞬時に立ち上がると、急いで廊下へ出た。

 王陸は迷う事なく、玉花が居る部屋の方へ駆けた。春琴はその跡を追う。

 春琴が跡を追っている認識はあったが、構わず王陸はその部屋へ駆け込んだ。

 「っ!?」

 駆け込んだものの、玉花の様子を見た瞬間、躰が凍り付き、王陸はその場に立ち止まる。

 後続の春琴が止まりきれずに、王陸の背中に衝突されても、彼は惚けた儘、彼女に釘付けとなっていた。

 物が散乱した部屋の片隅で玉花はうずくまり、その周辺には血が飛び散っている。

 玉花の症状は、一進一退。否、或いは、悪化の一途を辿っている様にも診られた。

 「………これは……………」

 この現状を見た春琴も、凍り付き、息を呑む。

 「お、おぉ、王陸!」

 ふたりの出現に気付き、困り果てた顔の林。

 そこで初めて、王陸は我に返った。

 「医生イーション、何が起こったのですか!?」

 「何が癇に障ったのか、急に興奮し始めてな、そうして倒れ込んで、吐血をしてしまったのだよ」

 林は、「いやはや」と云う様に頭を振り、

 「薬を処方して来るから、暫し視ていて呉れるかな」

 その言葉を残して、林は退室した。

 「もしや、大姐は、手の施し様がない程に、最悪の状態だと?」

 林の後ろ姿を見送り、春琴が口を開き、そう訊いた。

 彼の脳裏には、先刻往来で擦れ違った、二人組の男の会話が蘇る。

 「白花姐さんも、そう長くはねぇな」確かにそう云っていた。そしてこの、白花大姐の様態を見ても、その命は風前の灯火……………

 「………爺、春大爺!」

 王陸の声に、春琴は我に返り、反射的に彼へ視線を走らせた。

 「春大爺、姑娘もこの様な状態であります故、今日の所は御引き取りの程を、どうか」

 王陸は眉間に皺を寄せ、皆目十五の少年には見えぬ程の険しい表情で春琴を直視しつつ、そう云った。

 「……………」

 春琴は、何と返せば良いのか、言葉が見付からず、暫し彼と見詰め合う。

 嗚呼、そうだな。

 彼としても、興味を持ったものの、そこまで執着する女人ではないのだから、今直ぐにでもこの場から離れる気ではあった。

 だが、何かがきになり、この場から、更にいえば、白花から眼が離せずに居た。

 ふたりが視線を合わせる事刹那、呻き声があり、玉花がゆっくりと首をもたげる。

 「っ!」

 その面を見た春琴は、ぎくりとした。

 化粧気も血の気もない面は、頬の痩けた老婆である。

 老婆の面を持つ白花は、口の回りに血を付けて、少女の様にころころと笑う。

 それが、何とも不気味であった。

 白花という女人はもしや、玉花大姐やも知れぬ。と、心の何処かで思っていたが、これで一掃された。

 それ程、玉花の容相は変わり果ててしまったのだ。

 白花が玉花とは別人だと知った安堵感から、春琴はふと口元を緩める。

 「あい分かった。今日の所は引こう」

 彼のその言葉に、王陸もまた、ほっと息を吐く。

 王陸としては、今のこの玉花の姿を、ダーコォ側の人間に知られたくはなかった。これ以上、踏み込まれたくはない。

 想いの女人は最期まで、美しい方が良いに決まっている。

 春琴の言動から、現実の白花から玉花の影が見付けられないと察し、王陸は安堵する反面、胸がちくりと痛んだ事も否めなかった。


 日が西に傾き始めた頃、漸く玉花の容態が安定した。

 「王陸よ、帰らなくて大丈夫なのか?」

 この時刻になっても、王陸が玉花の側から離れようとしないのを気にして、林は訊いた。

 「楼主様より休みを頂いておりますので、問題はありませぬ」

 顔も向けずに、王陸はそう答えた。

 「そうか。まぁ、好きにしなさい」

 林は彼の様子にひとつ息を吐き、その言葉を残して部屋を離れた。

 「……………」

 王陸は、玉花が横たわっている寝床に頭をもたせ、横目使いで彼女を眺める。

 開けられた窓からは時折、春の強い風と共に、桃花の香りも吹き込んだ。

 鼻孔をくすぐる桃花の香りは、王陸の胸を締め付けるのであった。




典当舖てんとうほ・質屋

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ