其の三十七
微睡みの中、玉花は幼少期の夢を見た。
今迄思い出した事もない両親、弟妹達の顔は、既に見付けられないというのに……………今更、何故か?
「………っ!?」
物音に、びくりと玉花は目を覚ました。
窓から差し込む陽の光が、天井をも照らし、その穏やかで優しい明るさに心が解きほぐされる様に、玉花は安堵の溜め息を漏らす。
「大姐」
と、部屋の外から声が掛けられた。
鴉片毒を取り除く生薬の所為か、朦朧とする頭では、その声の主が誰なのか気付けない。
「大姐、まだ起きておられましょうか?」
間を置き、また声を掛けられる。
「何方であろう?」
玉花はゆっくりと半身を起こし、逆に尋ねた。
戸が開けられ、姿を現したのは、王陸だ。
その顔を見、玉花はふと微笑む。
「これは、何方の手代でありましょう?」
冗談ではなく、玉花は真面目にそう尋ねた。
彼女の言葉に王陸の表情が少し陰ったが、それも束の間、気を取り直すと正面に玉花を見る。
近頃の玉花は、例え芙蓉を前にしても、同じ反応なのだ。
王陸は表情を和らげ、口を開く。
「先刻、私と入れ違いに、二方の男人が参られていた様ですが、何用だったのでしょうか?」
林医師から開口一番、赤蛇団の葛榴と子絽が来ていた事を聞いての、その問いである。
だが玉花は、きょとんとした顔で彼を見ていた。
「……………」
彼女の様子に王陸は動揺をし、消沈して閉口する。
大姐は、ついに先刻の事でさえ、忘れてしまわれたというのか?
哀しさと淋しさで、心がざわざわと波打つ。
「………大姐、小雨が淋しがっております」
目を伏せ、王陸の口を衝いて出た言葉に、初めて玉花の表情が動いた。
「懐かしい名」
そう、口の中で呟く。
「何処で耳にした名かしら?」
次に云った言葉は、王陸の耳に届き、彼は視線を上げ、再び玉花を見た。
「詩雨小爺……夏飛小爺ですよ、大姐」
一縷の望みを掛ける様に、王陸は、玉花の子であるその字と本名を口にする。
そんな王陸の望みも知らず、玉花の心は夢の続きの中に居た。故に、朧で輪郭さえ見付けられない、幼き弟達の影が目の前にちらついていた。
「もう、大きいなったろうに」
ふふと笑い、玉花はそう云った。
「はい、左様にて。大姐と再会するのを、本当に、心待ちにしておられます」
彼女の脳裏にあるのが、弟達であるとは露知らず、明るい気持ちで王陸は云う。
「会いたいのう」
沁々と玉花は言葉を漏らした。
「なれば………」
「王陸よ、暫し良いかね?」
彼が云い掛けた調度その時、戸外から林が声を掛けて来た。
「あ、と、はい」
不意の事に、王陸は頓狂な声で返答する。
そして、玉花に席を外す事を詫び、廊下へ出た。
玉花はにこにこと、機嫌好く彼を送り出す。
廊下に出ると、林が困った顔をして立っていた。
「何かありましたか?」
王陸から口を開き、そう訊いた。
「それがな、春琴と申される御役人が参っておられ、どうしても姑娘と面会したいと、そう申されておるのだが………」
「姑娘」即ち、白花の事だ。
王陸は顔を顰める。
「分かりました。私が対応致します」
そう云い、矢張り来たか。と、心中で呟いた。
先日、この診所で黎竪が白花と遭遇した事で、遅かれ早かれ春琴も訪れるだろうと、彼は予期していた。
応接間で待つ様云われた春琴は、まだ見ぬ白花の為人に就いて考えていた。
黎竪からは当然、王陸もその場に居た事も報告されている。
あの者が拘っているのなら、元月夜楼の妓女だと考えるのが自然だろう。否、或いは、現役の妓女やも知れぬな。何れにせよ、月夜楼との関係性は濃いだろう。
そう考えている所へ、廊下から声が掛けられた。
「!」
その声を聞き、春琴は意外に思う。
戸が開き姿を見せたのは、言わずもがな王陸である。
「春大爺、御無沙汰しております」
王陸は拱手の礼で以て挨拶をした。
「否、何、構わぬよ」
春琴はそう応え、王陸へ椅子を勧める。
彼が腰を下ろすのを待ってから、
「王陸殿が応対されるという事は、白花という女人、月夜楼と拘りを持つ者であると、そう考えて宜しいかな?」
改めて口を開き、そう尋ねた。
春琴のその言葉に王陸は意外に思い、まじまじと彼を見る。
大爺の口振り、もしや、大姐と白花を別の人物だと、そう思われているのだろうか?
「恐れながら、逆に御尋ねしても宜しいでしょうか」
故に王陸はそう云った。
「何かな?」
「確かに、白花姑娘は月夜楼と拘りのある方では御座居ます。なれど、その名は広くは知られてはおりませぬ。大爺は何処で、その名を把握されたのでありましょう?」
王陸の問い。
春琴は、答えるべきか迷った。
それは、主人である耀舜皇太子の存在を公に晒す事にもなるからだ。
「……………」
対面する春琴と王陸の頭上に、出逢ってから初めて、重く厭な沈黙の空気が、沈殿するかの如く覆い被さるのであった。
○王陸・月夜楼の小姓
○林・月夜楼のお抱え医師
◎赤蛇団・元馬賊集団
○葛榴・赤蛇団
○子絽・赤蛇団
○夏飛・玉花の子息
○詩雨・夏飛の字
○白花・玉花の俗名
○芙蓉・月夜楼の芸妓
○春琴・皇太子付きの太監
○黎竪・見習い宦官




