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愁い花  作者: 冷水房隆
34/87

其の三十伍

 「殿下、申し上げます。供御くごの御用意が調って御座居ます」

 皇太子の居所である春宮の前で黎竪リィシュウが、扉の内側へそう声を掛けた。

 ややあって、梳頭そとう太監が扉を開け、黎竪を迎え入れた。

 「声が違うと思えば、矢張り春琴チュンチンではないな」

 跪く黎竪を見下ろし、皇太子・耀舜ヤオシュンは云った。

 「畏れながら、申し上げます。春太監は只今、所用にて城外へ御出掛けになられて御座居ます。

  故、春太監の御戻りになられる迄、不肖ながら私、黎竪が代わりを承りますれば、何なりと御申し付け下さいませ」

 初めて間近で接する皇太子の御前で、黎竪は圧倒され、僅かに震えるものの堂々と返答する。

 彼のその様子を見て、耀舜はふと笑う。

 「そうか、近頃春琴に見習いが付いたと耳にしたが、黎竪、其方であったか」

 「はい」

 「して、春琴は何処いずこへ?」

 「畏れながら、それに関しましては、何も存じ上げぬ次第にて、申し訳御座居ませぬ」

 怖ず怖ずと黎竪は答えた。

 耀舜は彼を直視しつつ、ふむと軽く頷く。

 春琴の行方を思い当たる節があっての、その頷きであった。


 その頃、当の春琴は花京ホワジィンに在る、林医師の診所へ向かっていた。

 白花バイホワと会う為だ。

 そもそも、鴉片が易華ヤンホワに入って来たのは、約三百年前で、先の将時代になる以前の事である。

 これ迄幾度も『使用禁止輸入禁止』となるも、御上の代替わりの度にその条令は覆され、ついには、先々代の光置グアンヂーの御代、四十二年前に輸出国のロスタムと開戦をするまでになったのだが、未だに国内で鴉片熱は冷めないでいた。

 その理由は勿論、多額の金銭が動くからだ。

 宮中の高級官吏や太監の間でも、嗜好品として密かに広まっている始末。

 宮中に上がって二十余年の春琴である、鴉片で正体を失くした太監を、幾度か目撃してもいた。

 黎竪から話を聞いた限り、白花は嗜好品の域を越え、どっぷりと依存してしまっているのだろう。その様な者と会う事に春琴は、怖気が付く反面、好奇心も正直あった。

 ……………本通りから外れて、診所の在る横道へ折れると、その診所から調度ふたり組が出て来た所であり、こちらへ向かって歩いて来る。

 装いからして、馬賊だろうか。

 彼らを見て、春琴は直感でそう思った。

 「短期間での大量の鴉片喫煙だ、白花姐さんも、そう長くはねぇな」

 「え? だけど医生イーションは、そんな事一言も云ってなかったですぜ?」

 「そんな事、林は口にしねぇさ。だが、死相が出ていた、間違いねぇ」

 擦れ違い様、耳に入った彼らの会話に、春琴は思わず振り返り、その背中を見る。

 反応したのは無論「白花」の名。それと、「そう長くねぇ」という言葉だ。

 彼らが歩けば、自然と人の波が割れる。

 白花という者、矢張り堅気の者ではないのか。

 春琴はそう考え、気を取り直すと、また歩みを進めた。

 「………………」

 そんな春琴の後ろ姿を振り返って見るのは、男ふたりの内のひとり。

 「子絽ヅーリュィ、どうした?」

 「今擦れ違った文官、確か前に、王陸ワンルゥと一緒に居たなって、ちょっと気になりまして」

 彼は首を傾げる。

 「あぁ、なら、月夜楼の客じゃねぇか?」

 「あー、なる程、それもそうすね」

 納得した。

 そしてまた、葛榴グァリウと子絽は何事もなかった様に、本通りへ出て、胡暗へとそぞろに歩いて行った。

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