其の三十伍
「殿下、申し上げます。供御の御用意が調って御座居ます」
皇太子の居所である春宮の前で黎竪が、扉の内側へそう声を掛けた。
ややあって、梳頭太監が扉を開け、黎竪を迎え入れた。
「声が違うと思えば、矢張り春琴ではないな」
跪く黎竪を見下ろし、皇太子・耀舜は云った。
「畏れながら、申し上げます。春太監は只今、所用にて城外へ御出掛けになられて御座居ます。
故、春太監の御戻りになられる迄、不肖ながら私、黎竪が代わりを承りますれば、何なりと御申し付け下さいませ」
初めて間近で接する皇太子の御前で、黎竪は圧倒され、僅かに震えるものの堂々と返答する。
彼のその様子を見て、耀舜はふと笑う。
「そうか、近頃春琴に見習いが付いたと耳にしたが、黎竪、其方であったか」
「はい」
「して、春琴は何処へ?」
「畏れながら、それに関しましては、何も存じ上げぬ次第にて、申し訳御座居ませぬ」
怖ず怖ずと黎竪は答えた。
耀舜は彼を直視しつつ、ふむと軽く頷く。
春琴の行方を思い当たる節があっての、その頷きであった。
その頃、当の春琴は花京に在る、林医師の診所へ向かっていた。
白花と会う為だ。
そもそも、鴉片が易華に入って来たのは、約三百年前で、先の将時代になる以前の事である。
これ迄幾度も『使用禁止輸入禁止』となるも、御上の代替わりの度にその条令は覆され、ついには、先々代の光置の御代、四十二年前に輸出国のロスタムと開戦をするまでになったのだが、未だに国内で鴉片熱は冷めないでいた。
その理由は勿論、多額の金銭が動くからだ。
宮中の高級官吏や太監の間でも、嗜好品として密かに広まっている始末。
宮中に上がって二十余年の春琴である、鴉片で正体を失くした太監を、幾度か目撃してもいた。
黎竪から話を聞いた限り、白花は嗜好品の域を越え、どっぷりと依存してしまっているのだろう。その様な者と会う事に春琴は、怖気が付く反面、好奇心も正直あった。
……………本通りから外れて、診所の在る横道へ折れると、その診所から調度ふたり組が出て来た所であり、こちらへ向かって歩いて来る。
装いからして、馬賊だろうか。
彼らを見て、春琴は直感でそう思った。
「短期間での大量の鴉片喫煙だ、白花姐さんも、そう長くはねぇな」
「え? だけど医生は、そんな事一言も云ってなかったですぜ?」
「そんな事、林は口にしねぇさ。だが、死相が出ていた、間違いねぇ」
擦れ違い様、耳に入った彼らの会話に、春琴は思わず振り返り、その背中を見る。
反応したのは無論「白花」の名。それと、「そう長くねぇ」という言葉だ。
彼らが歩けば、自然と人の波が割れる。
白花という者、矢張り堅気の者ではないのか。
春琴はそう考え、気を取り直すと、また歩みを進めた。
「………………」
そんな春琴の後ろ姿を振り返って見るのは、男ふたりの内のひとり。
「子絽、どうした?」
「今擦れ違った文官、確か前に、王陸と一緒に居たなって、ちょっと気になりまして」
彼は首を傾げる。
「あぁ、なら、月夜楼の客じゃねぇか?」
「あー、なる程、それもそうすね」
納得した。
そしてまた、葛榴と子絽は何事もなかった様に、本通りへ出て、胡暗へと漫ろに歩いて行った。




