其の三十四
主人の間に呼ばれた、その翌日の昼下り。
芙蓉は、夏飛と風香と共に、遅い昼餉を摂っていた。
「時に、小雨は、媽媽に会いたいか?」
その際に、芙蓉はそう訊いた。
突然のその問いに、夏飛はきょとんとし、上げた箸を下ろす。
「姐姐、藪から棒に何事なのですか?」
風香が割って入り、夏飛の代弁をする様に、訝しがり、逆に訊く。
「どうだ? 小雨」
芙蓉は風香に構わず、再度尋ねる。
「あ、会いたい………」
夏飛はそう答え、溢れそうになる涙を堪え、ぎゅっと強く目を閉じた。
その様子に、風香は不機嫌な顔付きとなり、夏飛を横目で見る……………
宮中。
春琴の居住房である松子房に、翰林院士で皇太子・耀舜の師傅の由成が訪れたのは、耀舜が胡暗の被災者名簿から白花の名を抹消させた、その翌日の夜だ。
彼の訪問を怪訝に思いながらも、春琴は快く迎え入れた。
「………懋で緊迫した情勢の今、この様な事を問題視するのも如何なものかと、稍迷ったのだが」
「何事で御座居ましょうか?」
春琴は身を乗り出す。
懋とは、本国・易華の西北に位置し、アライヒの最西端とルレンの南方の国境に接する地域だ。
そして今、三国間で揉めている最中なのである。
「うん。実は、以前から敬事房の者から相談をされていてな」
先程から由成の歯切れが悪い。
だが、「敬事房」と聞き、春琴は感知した。
それはつまり、皇太子の夜伽の事だろう。
春琴は無言で、次に出る由成の言葉を待つ。
「当初こそは、侍寝として、羅妃殿下を招喚なされていた様ではあるが、近年では全く御声が掛からぬと、妃殿下も嘆いておられるとか」
「左様で御座居ましたか。
然りとて、申し訳御座居ませぬが、そちら方面は、私の与り知らぬ所であります故」
春琴は首を下げながら、そう応える。
「あ、これは、私の方こそ、春殿を責める様な云い方になってしまい、申し訳ない」
由成は慌てて執り成した。
「そうではない、私が云わんとする所は、そこではなく………」
そこまで云い、由成はひとつ息を吐き、座り直すと、
「今、殿下が進められている事業、胡暗の火災で被災した民へ見舞金を給付する件は、無論君も知っておるな?
それに関して昨日、有ろう事か殿下は、被災者名簿から一名を削除なされたのだよ」
彼の言葉、春琴はぴくりと反応した。
「そ、それは、何という名の者であられましょうか?」
「確か………白花、とか、そういう名であったかな」
「っ!!」
春琴はぎくりとする。
「春殿のその様子、何やら心当たりがあると?」
「否………」
言葉を濁す春琴。
由成は暫し、そんな彼を直視してから、口を開く。
「殿下は、分け隔てなく、被災した総ての民に見舞金を給付すると、その者が例え、最下層の身分であろうとも、そうすると申された。
だがしかし、何故、その白花という者ひとりを、削除されなければならぬのか」
そして由成は、徐々に感情的となり、身を乗り出す。
「皇太子殿下の名の下で行うのであるのならば、そこに私情を差し挟む事は、あるまじき愚行であるぞ」
「御尤もな御意見にて」
「春殿、殿下を愚行に走らせる、その白花とは、何者なのだ?」
由成は両手を伸ばし、卓を挟んで対面する、春琴の両肩を掴んだ。
「………………」
春琴は口を噤み、思い惑う。
無論、由成は信頼出来る人物である。
しかしながら、白花の事を語れば、自ずと玉花の存在が浮き彫りとなり、妓楼へ通っていた事実も明るみとなるだろう。
例えそれが五年前であり、婚儀前であろうとも、後の皇太子が足繁く通うとは以ての外だ。それ故に、この事を知るのは、春琴と八雲軍の総指揮官である瑠偉武他、腹心の限られた者のみなのだ。
「………白花という者、名だけは耳に致して御座居ますが、それ以上は、残念ながら存じませぬ」
考え倦ねいた末、春琴は心苦しくも、そう答えた。
「それは、誠か?」
由成は探る様な目付きで彼を見る。
「はい」
その視線を受けても、春琴は、二回りも上の年長者と視線を交わし、堂々と頷いた。
「………………」
暫しの沈黙の後、由成はふと笑う。
「君は何とも、恐ろしい存在だ。だが、殿下には忠実であり、頼もしい存在であるのだな」
「痛み入ります」
春琴は背筋を伸ばし、卓に額が着く程に深く、頭を下げた。
夕暮れ時の胡暗、その本通りはそろそろ賑わい始めて来る。
昨今の主な顧客である軍人は、懋での攻防戦に駆り出され、その姿は疎らである。その代わり、以前の様に金銭に余裕のある大店の子息や、余裕はないものの、日頃の鬱憤を晴らしに、金銭を掻き集めて来る下級官吏や民の姿が多く見られた。
それ故に、どの妓楼も、高級妓女である太夫が呼ばれる事は稀だ。
その波は当然、雪梨にも押し寄せ、焦燥感で辟易していた。
故に、栄華を誇っていた頃の太夫、玉花の存在をより一層妬み、夏飛の存在さえも疎ましかった。
夏飛が月夜楼に居るというだけで、例え姿を見なくとも、その影が目障りで仕方がない。
どうしても追い出したい理由は、それである。
だが、幼年の夏飛を想うと、少なからず母性本能が疼き、楼主の思惑である、劇院や龍陽へ売るという事には抵抗があった。
この儘の情勢が続き、指名数が低迷してしまえば、発言力も弱まり、再び楼主の意の儘に事が進むだろう。
そんな事は、自尊心が許さない。
雪梨は苛々と、紫煙を吐き出した。




