其の三十三
月夜楼の楼主に芙蓉は呼ばれ、王陸に連れられて主人の間を訪れた。
房間には意外な事に、雪梨の姿もある。
「これは、雪梨太夫」
芙蓉は万福の礼をした。
「掛けなさい」
楼主・陳茂叔に云われ、芙蓉は長椅子の右端に腰を下ろす。
左隣には、雪梨が腰掛けている。
この主人の間は、西洋風の応接様式になっており、落ち着かなかった。
王陸が陳茂叔の背後に着いたのを機に、芙蓉は口を開く。
「して、雪梨太夫も同座の場に呼ばれるとは、何事で御座居ましょう?」
「小雨の事だよ」
好々爺の如く表情をしながら陳茂叔は、切り口も鋭く云った。
「!」
芙蓉はぴくりと反応する。
予想はしていた。
いつかは来るだろうと、覚悟もしていた。
「もう、一月半になるかな? 小雨を置いてから」
「それ程かと、存じます」
芙蓉は冷静に受け答える。
「火災に巻き込まれたのは、それは、同情もするのだがね」
「芙蓉、単刀直入に申せば、小爺を大姐の元へ戻せと、そういう事や」
楼主の意を酌み、雪梨が引き受けて、そう結ぶ。
「なる程」
芙蓉は頷くだけで、他には何も云わない。
「其方からしても、厄介なのではあらぬか?」
雪梨が再度口を開いた。
芙蓉は、王陸を一瞥する。
彼は無表情の儘、楼主の後ろに侍っているだけだ。
そして次に、楼主を見、一言「否」と告げる。
「芙蓉、良く考える事ね。この儘やって行けるとでも申すのか? 無理だわ。大体、妓女が子を育てられるものか。現に大姐は小爺を預けた儘、ちっとも姿を現さぬではないか」
呆れた様に、雪梨はそう云った。
「大姐にも、事情が御有りなのではないでしょうか?」
芙蓉はふと微笑んで返す。
「芙蓉、太夫も案じておるのだよ。今は良くても、今後、庇護出来なくなったその時は、どうするね? 切り捨てるのかね?」
陳茂叔が眉を顰めながら、尋ねる。
「元より、小雨も未だ数えで五つ、母恋しい年頃でもありましょう………」
「なれば矢張り、小爺を楼から出すべきだわ」
芙蓉の言葉に被せて、雪梨が云う。
「否。無論それが一番最善の道ではありましょうが、私は、大姐は勿論、小雨をも御守りしとう御座居ます」
芙蓉は長椅子から降り、楼主と雪梨に向かい跪きながら、そう告げた。
「ふ、強情な子」
鼻で嗤いながら云う雪梨の言葉が、芙蓉の頭上を通り過ぎて行った。
「王陸、貴方も、小雨が出て行くべきだと、そう思っているのか?」
主人の間を出ると、彼もまた出て来たので、芙蓉はそう訊いた。
「否、今の、大姐の状態を考えると、小雨には酷な事かと存じます」
王陸は頭を振り、そう返す。
「しかし、何故此度の座に太夫がしゃしゃり出て来たのであろう?」
芙蓉が疑問を口にすると、王陸は促す様に歩みを進め、主人の間から離れる。
彼女は彼の跡を追った。
「………小雨を追い出したいのは、楼主様ではなく、太夫を中心とした、複数の妓女達であられます。今や楼主様は、太夫の云い成りとなられておいでに御座居ますれば」
僅かに顔を顰めて、王陸は口を開いた。
「そうか」
芙蓉は険しい顔で頷く。
雪梨太夫としては、前太夫の色を逸早く、月夜楼から消し去りたいのだろう。
そう考えた時、芙蓉はより一層、太夫らを軽蔑してしまうのだ。
「………っ!」
ふと気付き、彼女は王陸の顔を見る。
「なれば、楼主様の思考は違うと、そう申しておるのか?」
「実に、その通りにて」
「何? 申せよ、楼主様は、如何なる御考えか?」
芙蓉は苛立った。
「小雨は、孩子ながらも眉目秀麗、故に劇院か龍陽へ行かせ様と、その様な御考えを御持ちです」
「龍陽」と聞き、芙蓉の顔色がさっと変わった。
龍陽は、男倡を置く楼の事である。
「莫迦な。その様な事、大姐が承諾するとでも御思いか!?」
そして、憤慨した。
「理由はどうあれ、事実今、一月半程も小雨を放置しておるのです。そう見られても、仕方のない事かと存じます」
「なれど………っ!」
芙蓉は勢いで出掛けた言葉を、どうにか呑み込む。
王陸の云う通りなのだ。
楼主は玉花の現状を知らないのだから、子を捨てたと思われても仕方がない。
「………王陸、貴方も、楼主様寄りの考えかえ?」
その問い、彼は暫し彼女を見る。
「立場上、致し方ありませぬ」
そして、そう答えた。
「立場上」それは、夏飛の事なのか、はたまた王陸自身の事を云っているのか、その両者なのか。
芙蓉は険しい顔で王陸を見、彼の真意を、その表情から読み取ろうとするも、叶わなかった。
「………………」
月夜楼を出るも居座るも、何方にせよ酷なのならば、それならば………
戌の刻。
紫微城の閉門を告げる鐘の音が、風に乗って流れて行った。




