其の三十一
春琴は、皇太子・耀舜から命を受けた、『白花』という名の者の所在を探る件だが、引き受けたものの、思う様に動けないでいた。
その理由は、正に今、本国・易華の北に隣接する国アライヒが、更にその北に在る国ルレンに、西の地から侵入されており、約半年の攻防戦の末、易華へ助けを求めて来たのだ。
アライヒとは交易がある事から、現地近隣の軍を発動させたのだが、難航。本軍の一部隊をも援軍として送った為、軍事費が嵩んでいた。
その情勢の中において、いくら皇太子の個人財産から賄うとしても、苦力でなくとも、それに近い者達へ被災見舞金を給付する事に対し、批判する上層部の声も増えている。
これには春琴も行動を制限せざるを得なかった。
「……………」
どうした物か。と思案する彼の脳裏に、月夜楼の王陸の姿が浮かんだ。
あの者なら、何か知っているやも知れぬ。せめて、一時でも会えぬものか。
そんな事を考えながら廊下を進んでいると、彼を呼ぶ者があり、春琴は振り返る。
そこに居たのは、少年宦官の黎竪だ。
「おお、黎竪か。
おや? 何処かへ行くのかな?」
彼が外套を着ているのを見て、春琴は訊いた。
「はい、周様の御使いで、花京へ参ります」
「周というと、御薬房の周渉太監かな?」
「左様で御座居ます。周様の昔馴染みの御方が、花京の薬舗に居られるそうで、そちらへ参ります」
「左様か………」
春琴は頷き、ふと思い立つ。
「ならば、黎竪、こちらも頼み事をしても良いか?」
「何事で御座居ましょうか?」
彼は首を傾げる。
「秘密裏にて、胡暗の月夜楼へ行き、王陸殿に面会して貰いたい」
春琴のその頼み事を、黎竪はふたつ返事で引き受けた。
さて、御薬房の周渉の昔馴染みとは、果たして徐博である。
「………周渉が使いを寄越すとは、偉くなってそっくり返りやがるな」
黎竪の訪問に、徐博は皮肉な笑みを浮かべる。
この偏屈な人物を前にしても、黎竪は笑顔を絶やさず、周渉から託された注文書を渡した。
「なる程」
注文書を受け取り、内容をざっと確認すると、徐博は視線を上げて黎竪を見る。
「残念ながら、半夏だけは、今手元にないな」
その言葉に黎竪は、少年らしく落胆した。
「………そうだな。今朝方、医生に卸したばかりだ。今ならまだ、有るやも知れぬぞ」
徐博は彼のその様子を暫し眺め、そしてそう云った。
「誠で御座居ますか!」
黎竪の顔がぱっと輝いた。
「それは、何方の医生様でありましょうか?」
「青竜大路の下北に診所を構えている、林医生だ」
「青竜大路の林医生様で、御座居ますか」
黎竪は鸚鵡返しにそう云い、脳裏に刻む。
「どれ、こちらも急いで用意しよう」
徐博はそう云いながら、奥の百味箪笥へ向かった。
半夏以外の生薬を受け取り、黎竪は急いで青竜大路の下北、林医師の元を訪れた。
「御免下さい」と診所へ入ると、白衣を着た年配の男性と少年が同時に彼を見る。
年配の方は林であり、少年は王陸であった。
「これは、いつぞや御逢いした、春大爺の供の者でありましょうか」
訪れた彼を意外そうに見、王陸が先に口を開く。
「は……。王陸殿? ここで御見掛けするとは、慮外で御座居ます」
瞬時に黎竪は姿勢を正して、畏まった。
「何だ、王陸、知り合いかね?」
ふたりのやり取りを見て、林は朗らかに口を挟む。
「顔見知り程度ではありますが」
王陸はそう返し、怪しむ様に黎竪を盗み見る。
春琴がダーコォに仕えて事を知っている。それを考えれば、この少年も当然、ダーコォと関係していると云えよう。
事実、そうなのである。それも、宮中内の事だとは、全く想像も及ばない王陸である。
「それで、何用かね?」
林の声で王陸は我に返り、改めて黎竪へ視線を向けた。
「はい、徐様から、こちらに半夏が有ると伺い、参上致しました」
黎竪もはっとして、慌てて拱手の礼で以て、訪問の主旨を述べた。
「ふむ、どれ程入り用かな? 事に依っては応じられぬがね」
「急な買い付けで御座居ます故、それは否めない事です。林様の許容範囲内で構いませぬ」
林と黎竪がその様なやり取りをしていると、奥で物音がした。
視線を向けると、表情のない蒼白い顔の女人が静かに立ち、空虚を眺めている。
言わずもがな、玉花だ。
「ユ………、白花大姐、如何されましたか?」
「玉花」と呼ぼうとした王陸は、黎竪の存在を気にし、呼び改めてそう尋ねた。
「!」
しかし黎竪は、彼が敢えて云い直した「白花」の名に反応し、玉花をまじまじと見詰める。
春琴からの依頼が、王陸と面会をし、白花という名の者の所在を聞き出して貰いたい。という内容であったからだ。
「………あ、あの、あちらの御方が、白花という方なので御座居ますか?」
それ故に黎竪は、気を昂ぶらせながらに訊いた。
彼の質問に、王陸はぎくりとする。
春大爺は、大姐の俗名さえも聞き及んでおられたのか? 否、ダーコォ大爺の方だろうか? 何方にせよ、侮れぬ。
「これは驚いた。君は、姑娘を知っておるのか?」
王陸の心中には気付かず、林は意外そうに口を開いた。
「あ、否、その名だけ耳に致しました。
それにしても、麗しい方………」
黎竪は玉花から目を離せず、うっとりと見惚れている。
「大姐、未だ体調が芳しくはないのでしょう!?」
彼の視界を遮り、王陸は少し大きな声でそう云いながら、玉花の側へ寄りその躰を支えつつ奥へ連れ戻そうとした。
だが、夢から覚めた玉花に、その手を叩き払われた。
「厭! 触るでない!」
そして、癇癪を起こした様に玉花は叫んだ。
林と王陸は最早見慣れた光景ではあるが、黎竪は彼女の行動に大いに動揺し、説明を求める様に林を見るも、彼は唯頭を振り、黙って半夏を百味箪笥から麻袋へ入れる。
その間にも玉花は何事かを叫び、王陸は半ば強引に、彼女を奥へと連れて行った。
黎竪は茫然としながら、それを見届けた。
「………小爺、見苦しい所を見せてしまったね」
林のその声に黎竪は我に返り、帳台の上に置かれた麻袋を掴むと、後退り、逃げる様に診所を出て行った。
何? 何だったのだ? あれは、現実の事だったのだろうか?
黎竪には、衝撃的な出来事であった。
動悸が治まらず、脳は混乱を来し、眼を開いていても何も見えていない状態で、只歩みを進めているだけである。
そんな彼の背を追い、王陸が声を掛けた。
黎竪はびくりと肩を震わせ、物の怪でも見る様な顔付きで、王陸を振り返り見る。
「恐れながら黎竪殿、春大爺へ伝えて頂きたい」
王陸はそこ迄云い、息を整えてから、
「玉花大姐は既に消え果てた、と」
そう続け、拱手の礼をすると、踵を返した。
取り残された黎竪は夕焼けの中、王陸の背中を見送る。
嗚呼、そろそろ閉門の鐘が、鳴る頃だろうか……………




