其の二十九
窓から覗く朧月を、玉花は床の中から眺めている。
この頃になると、客の相手をしていない時は、起き上がる気力も無くなり、終始惚けている事が多い。
そんな彼女の身の回りを、進んで面倒看ているのが蜀甫だ。
彼は、返事のない玉花に対しても、常時の様に話し掛ける。
「姐さん、寒くねぇかい?」
「………………」
「最近、客の入が悪いなぁ」
「………………」
「姐さん最近痩せて来たな、飯もあんま喰ってねぇし」
蜀甫はそう云い、玉花の頬を撫で摩った。
それでも玉花は、ぴくりとも反応しない。
それから彼は口を閉じ、唯々彼女の頬に触れていた。
この毛修の隠れ家は今、玉花と蜀甫の他には誰も居なかった。
そもそも玉花にしてみれば、今居る房間以外がどの様な造りになり、屋がどれ程の規模なのかも判らず、何者が幾人出入りしているのかすら知らない。
そうであれ、今日の屋の静けさは、感じ取っていた。
夜更けになって、俄に騒がしくなり、屋は不穏な雰囲気に包まれた。
毛修が、朋輩の趙頗と帰って来たのだ。
それに気付いて蜀甫は、慌ててふたりを出迎える。
「っ!?」
ふたりの姿を見て、蜀甫は度肝を抜く程に愕然とした。
毛修と趙頗は帯刀をし、袍も血で汚れ、そして共に興奮気味である。
更に、趙頗が担いでいる棒の先には、血が滴る麻袋が、西瓜程の大きさに膨らんでいた。
「おい蜀甫、今日は誰か来たか?」
台の上へ無造作にそれを置きながら、趙頗が正気を失った様の眼を彼に向け、そう訊いた。
その猛禽の如く冷徹な眼差しに、蜀甫は脅威を覚え、震える声で答える。
「い、いえ、誰も、来ていません」
歯の根が合わない。
「売女はどうしてる?」
続け様に、今度は毛修が口を開いて訊く。
「ね、寝てます」
「あー、もうずぶずぶだな」
蜀甫の言葉に、毛修は口の端を歪めた。
姐さんに、何かするつもりだろうか?
そう考えると蜀甫は、背に冷たい物を感じ、脳が痺れる程の嫌悪感を抱く。
「………趙哥、その袋は、何なんですか?」
支える言葉をどうにか押し出し、蜀甫は訊いた。
「斉の旦那の首だ」
さらりと趙頗は返す。
その言葉、思わず蜀甫は後退った。
「何を驚いてんだ? 高が斉有素の首だ。驚く意味が分からねぇなぁ」
彼の様子を見、毛修は嗤いながらに云う。
目前に置かれている麻袋の中に、人の生首が入っている事実、蜀甫は吐き気を催しながら、疑問を口にする。
「チ、斉の旦那を、どうして、斬首したんです?」
「あ? 誰の所為だと思ってんだ!?」
毛修は怒鳴り、蜀甫の胸倉を掴んだ。
彼はその勢いに呻き声を上げる。
「手前ぇがほいほい、子絽なんかを入れるからだろうが!」
どすの利いた声で毛修は云った。
「………す、済みません」
彼の威勢に、蜀甫は萎縮する。
そうは云っても、蜀甫と子絽は面識がないのだから、客だと云われれば、入れてしまうのは当然だ。
「だからよ、白花姐さんの事も鴉片の事も、全部斉の旦那に被せてちまえば、手っ取り早いだろう?」
趙頗が穏やかにそう云った。
どうやら毛修にそう入れ知恵したのは、彼の様である。
趙頗の沈着冷静振りに、蜀甫はぞっと、身の毛が弥立つ想いであった。
「でだ、あの姐さんもあぁなっちまっちゃ、もう用済みだ」
毛修が云う。
「え? よ、用済みって………」
蜀甫は狼狽する。
「こうなっちゃあ、もう囲って置けねぇ。正体を失くしてる今なら、姐さんも苦痛じゃねぇだろう」
すらりと青龍刀を抜いて、趙頗が云った。
その刀身を見て蜀甫はぎくりと震える。
そんな彼を尻目に、ふたりは玉花の居る房間へと走った。
一瞬遅れて蜀甫は我に返り、ふたりの背を追う。
「………ここが奴の隠れ家か」
安曇の西、人里離れた林の中に建つ家屋を見上げ、侠羽が開口一番にそう云った。
「ここで素人女人を売って、小銭稼ぎとは、笑止の至りだ」
葛榴は眉間に皺を寄せる。
ふたりは建物の周囲を、注意深く一周し、中の様子を窺う。
明かりが灯っており、人の気配もする。
表玄関に戻って来、戸を叩いた。
しかし、応答がない。
ふたりは顔を見合わせてから、そっと戸を開ける。
見る限りは、誰の姿も見られない。
「おい」
侠羽が何かを見付けて、葛榴を肘で突き、小声で呼び掛ける。
彼の見ている先へ視線を向けると、その台の上に無造作に置かれた麻袋が目に入った。
そこからは赤黒い液体が滲み出ている。
それが血だと、ふたりは直感した。
大きさから推測するに、中身は恐らく人間の頭部か。
侠羽が先に動き、麻袋の口を開けた。
「っ!?」
中には当然、斉有素の頭部である。
と、その時、上の階から何か打つかる音と共に、諍う声が聞こえて来た。
ふたりは咄嗟に天井へ視線を走らせる。
玉花の居る房間へ入った毛修と趙頗は、床へ近寄り、寝ている彼女を見下ろしながら剥き出しの刀身を逆手に持ち、躊躇することなく振り落とそうとした。
が、後を追って入って来た蜀甫に体当たりされ、ふたりは不意を衝かれ、人頽となる。
「邪魔立てするか!?」
逸早く毛修が立ち上がり、蜀甫へ詰め寄る。
「おう手前ぇ、哥哥に楯突く気かよ?」
趙頗も起き上がり、蜀甫へ切っ先を向けた。
その騒ぎに玉花は目を覚ました。
「哥哥! 今姐さんを殺めるのは違います! 赤蛇団にも泥を塗る事にもなりますよ!!」
蜀甫は無我夢中でそう叫び、玉花を庇う様に、その上へ身を投げ出して覆い被さる。
毛修は舌打ちをした。
「なら、手前ぇが死ぬか?」
趙頗はそう云った。
ふたり共、目が血走っている。
「だめだ、やめい……」
蜀甫の下で、玉花は小さく云う。
彼女のその言葉を耳にし、蜀甫は面をふたりへ向け、
「姐さんを助けて呉れんなら、刀の露と消えますぜ」
脂汗を垂らしながら、覚悟する勇士の如く表情で、口を開いてそう云った。
「良い心懸けだな」
「ならば死ね」
毛修と趙頗はそれぞれそう云うと、容赦なく、蜀甫へ青龍刀を振り下ろした。
瞬間、玉花は身を起こし、狂った様に泣き叫ぶ。
「姐さん………大丈夫、これで、自由だ………」
吐血しながら蜀甫は、混乱している彼女を抱き締める。
玉花は、少女の様に泣きじゃくる。
「そんな約束、した覚えねぇな」
蜀甫の躰に突き刺した青龍刀を更に深く刺し、趙頗は冷徹に云った。
「哥哥………」
吐血と共にそう云い、蜀甫は恨めしそうに趙頗を見、その儘絶命した。
事切れてしまった蜀甫を見下ろし、玉花は絶叫する。
しかし、絶叫は嗚咽に変わり、何時しか呵々と笑うのだ………………




