其の二十六
暗い道を、ひたひたと走る。
この暗い道が、果てしなく続くと思われた。
だが突如、灯火が現れる。
赤い灯籠が連なる道。
懐かしくもあり、初めて目にする光景。
「!?」
何か聞こえた気がして、立ち止まり周囲を見回した。
しかし、誰も居ない。
有るのは、赤い灯籠だけだ。
気を取り直し、向かう先へ再度視線を送る。
何もない。
何もないのに、何故だか行かなければならない。
背後から迫る闇に、その闇に呑み込まれる前に、行くのだ。
また走る。
絶望感に圧し潰されて、孤独感を抱き、追われる様に走る。
「玉花、泣いているのか?」
今度ははっきりと聞こえ、その懐かしい声にまた、立ち止まった。
「何方?」
訊かずとも知る。
それでも、敢えて訊いた。
その者は闇から姿を現すと、優しく抱き締めた。
「俺を、忘れちまったのか?」
いいえ、いいえ覚えているわ、この温もり。
男の厚い胸に顔を埋める。
「ダーコォ、ダーコォなのね?」
男を求める様に、その背へ両手を回して、強く抱き締めた。
「そうだ玉花、迎えに来たぜ」
嗚呼、逢いたかった。
もう矜持も捨てるわ。
私を連れて行って、もう離れない。ダーコォを離したくはない。
「いいぜ、行こう。玉花を一生、愛してやる」
愛しい愛おしい、その愛おしい背をいつまでも、撫で摩った……………
……………昼過ぎ。
玉花はふと目を覚ました。
甘い夢の後の現実は、何と惨い事だろう。
寝惚け眼の儘、寝返りを打とうとして、枕に着けている右頬に違和感を覚えた。
枕が右頬の皮膚に引っ付いている。
「?」
恐る恐る頬を枕から放すと、皮が剥ける様な、厭な感触と音と共に離れた。
雨戸が閉められた薄暗い房間の中、右頬に手を充てながら、目を凝らして枕を見る。
血だ。
手に触れている頬は、かさかさと乾いていた。
血の気が引く思いで、玉花は枕元に置いてある手鏡を引き寄せ、覗き込む。
乾いた血が、顔の右半分を被っていた。
「っ!!」
悲鳴を上げそうになるのを、両手で口を塞いで、必死に堪える。
脳が揺れる感覚に襲われ、玉花は寝具に倒れ込んだ。
鼻から血が流れる。
何が起っているのか、分からない恐怖。
玉花は震える自身の躰を強く抱いた。
「………姐さん、塩梅はどうだい?」
そこへ蜀甫が入って来た。
玉花は視線だけを動かして、彼を見る。
「あーぁ、哥哥も加減を知らねぇからなぁ」
蜀甫はそう云いながら、玉花の側にしゃがみ込み、その顎を摑んだ。
彼女を見詰める彼の視線は、妙に熱っぽい。
玉花は顔を背ける。
「おいおい寝んなよ、客だぜ」
蜀甫は苦笑をし、彼女の肩を撫でた。
「客」と聞き、玉花は瞳を爛々とさせる。
客の相手をすれば、鴉片が貰えるからだ。
鴉片で飛べば、この倦怠感と絶望感から抜け出せる。
今、玉花を救うのは、鴉片しかなかった。
「こんな日も高い内からよ、しかも成人したての若造だってんだからよ、とち狂ってんよ」
客に対して悪態をつく蜀甫の声も、玉花の耳には届かない様子である。
蜀甫が云った様に、房間へ通された青年は、まだ二十歳に満たない程であった。
「姐さんが、白花?」
対面して卓に着き、青年は開口一番にそう訊く。
「えぇ、そうよ。小爺は?」
玉花は鴉片の煙を燻らしながら頷き、妖艶に笑む。
鼻血は何とか止まり、顔の痣も化粧で隠した。
「俺は、子絽って半端者さ」
人懐こい笑みを向け、青年は名乗る。
「そう、子絽というのね」
玉花が客の名を訊くのは珍しかった。
それでも思わず訊いてしまったのは、初めて逢った時のダーコォと、近い年頃だからだろうか。
「子絽、女人を抱くのは初めて?」
「否、姐さんで二人目だ」
笑みを崩さず、彼は答えた。
そして子絽は手を伸ばし、玉花の左頬に触れる。
「姐さん、顔色が優れねぇ様だが、大丈夫なのか?」
案じた。
玉花は灰吹に鴉片の吸い殻を落とし、頬にある子絽の手を両手で包む。
「この様な女人を案じるとは、嬉しい限りだの」
そう云い、自身の手と共に頬擦りをする。
子絽は花京の薬舗の、謂わば常連であるが故、このふたりは顔見知りの間柄だ。
しかし玉花は、鴉片で朦朧としている為、客の事が見えておらず、子絽もまた、敢えて素知らぬ風を決め込んでいた……………
夕方近くになり、毛修が戻って来た。
「あれから、客は来たのか?」
「あ、はい、若造がひとり、何処で聞いたのか、姐さんを名指しで」
「へぇ、そいつぁ珍しいな。で、何処の何奴だ?」
毛修は外套を脱ぎながら、そう訊いた。
「確か、子絽って名乗ってました。半刻程で帰って行きましたけど」
蜀甫のその言葉、毛修は顔色を変える。
「おい、今、ヅーリュィ、子絽って云ったのか?」
僅かに声を震わせ、毛修は確認した。
「え? はい、そうすけど、哥哥知ってんすか?」
蜀甫は戸惑い気味に、そう返す。
「葛榴哥哥の弟弟だ」
「………っ!?」
その言葉に蜀甫は蒼褪め、言葉を失くした。
「該死的!! 畜生!!」
毛修は癇癪を起こし、罵言を吐きながら、脱いだ外套を振り回す。
それによって、調度品や置き物が床に落ち、派手な音を立てて破壊される。
ある程度暴れると、毛修は興奮気味に肩で息をしながら、破壊された調度品等を睨め付けた。
その様子を蜀甫は、震えながらも、見ているしかなかった。
葛榴は、赤蛇団の頭目である石均に忠実であり、団切っての冷酷な人間だ。
今回ばかりは白を切り通せぬであろうと、毛修は、死刑宣告を受けた者の様に、恐怖と絶望に戦いた。
明けましておめでとうございます。
2022年最初の投稿です。
本年も、宜しくお願い申し上げます。




