其の二十二
春の柔らかい風が、昼下がりの胡暗の本通りを抜けて行く。
通りに並ぶ妓楼は皆、門を閉ざしてはいるが、厨の開けられた窓からは人の働く気配と、昼餉(朝餉)の仕度をする音と湯気と匂いで、漸く起き始めた事を物語っている。
軒下には二羽の雀が跳ね進み、地面を啄ばんでいた。
王陸は露店の長椅子に腰掛け、煎餅を食しながら、その雀を眺める。
雀は何かに驚き、直ぐ上の枝へ飛んで行った。
それを目で追う。
優しい陽射しが瓦に反射して眩しい。
「………これは、月夜楼の少年ではないか?」
そう声を掛けられ、王陸は視線を落とした。
そこには、春琴が共をひとり連れ、笑顔を向けている。
「!」
王陸は咄嗟に立ち上がり、拱手の礼をする。
「春大爺で、御座居ますか」
「ははは、そう畏まるでない。君は相も変わらずだな」
軽く笑って、春琴は云った。
彼は王陸の隣りに腰掛け、再度口を開く。
「年も明け、三年振りであるな。幾つになったね?」
「今年、元服の年で御座居ます」
照れながら、それでも胸を張って、王陸は答えた。
「元服」、この国の成人の儀は、十五歳である。
「なる程、道理で、しっかりとした顔付きになったと思うた。元服ならば、当然であろうな」
そんな彼を春琴は、目を細めて見る。
「そちらの少年は?」
王陸は照れ隠しに、春琴の側で控えている者を見て、そう訊いた。
「あぁ、見習いとして、暫し預かっているのだ」
春琴は少年を一瞥し、そう返しす。
「黎竪と申します。以後、御見知り置きの程を」
少年、黎竪は拱手の礼で挨拶をした。
王陸よりも年下であろうが、そう変わらないその少年に拱手の礼をされ、擽ったく想った。
いくら月夜楼内で堂々と振る舞っていようとも、一歩外界へ出れば、まだ十五の若造であり、小性という身分を前にすれば、増して枠外の者と対面すれば尚更、背を丸めてしまう程だ。
「御丁寧な御挨拶、忝く存じます。不肖王陸と申します」
だが彼は背を丸める事なく、拱手の礼で以て返した。
王陸のその言動に春琴は、彼の出生を知った様に思った。
王政復古となり、十五年。将の時代は未だ、色褪せていないのだ。
「………君はいつも、昼餉は外で?」
春琴は、そんな様子を微塵も見せず、これまでと変わりない態度でそう訊いた。
「否、本日は使いの用で外出しましたので、その序でにて御座居ます」
王陸はそう答え、
「春大爺は何用で御座居ましょう?」
訊いた。
「まぁ、野暮用で参った次第だよ」
「左様でありましたか」
王陸が頷き、そう返した時である、女性達の賑やかな喋り声が近付いて来た。
「おやあれは、月夜楼の姐姐達ではないかな?」
春琴がその者達を認め、そう云った。
見れば、雪梨太夫派の妓女達である。
「……………」
王陸は何気なしに身を引き、春琴の陰に隠れた。
目前を通り過ぎる妓女達は、話しに夢中で、王陸の存在には気付かない。
「………大姐に大口叩いていた割りには、大した事ないわね」
「大体、太夫の器ではなかったのよ」
「童を産む自体で、恥ずべき存在だわ」
「その童でさえ、結局は育てられず、芙蓉姐姐に見て貰っているのだもの」
「最低な母親よ」
「あの様な女人にはなりたくないわね」
「大姐を見下したから、罰が当たったのよ」
「様を見ろって事ね………」
悪口雑言を並べ、嘲笑う妓女達の背中を、王陸は睨め付ける様に見送った。
「何とも、賑やかな姐姐達であるな」
春琴は王陸のその様子に気付かぬ振りをし、朗らかに笑う。
「不躾で、申し訳御座居ませぬ」
王陸は我に返り、頭を下げた。
「否、何、好い好い。
なれど確かに、玉花太夫が居た頃は、往来であっても軽口をする妓女はいなかったか」
春琴は笑顔でそう云うも、その言葉は鋭く、王陸の心に突き刺さった。
地面に向けていた視線を上げ、王陸は妓女達が去って行った方へ向ける。
もう既に妓女達の姿は、行き交う人の中に消えてしまっていた。
そうなのだ、雪梨が太夫となった今、楼内の雰囲気もがらりと変わってしまった。それは、世代交代特有の事なのだと、当然の事なのだと思っていた。だが、品格さえも落ちた様に感じるのは、気の所為ではないのだと、改めさせられ、王陸は羞恥心さえ覚える。
皇城である紫微城、その城門が閉じる鐘が都に響いた頃、春琴は儲秀宮に居た。
「仰せ仕りました簪は、都の市で購入したそうで御座居ます。その市の店に品を卸しておりましたのは、胡暗の典当舖との事で、そちらで事情を聞きました所、白花と申す女人から買い取った品だと判明致しました」
春琴は報告する。
「して、その白花と申す女人は、どういった者なのだ?」
報告を受けた耀舜は、玉案に身を乗り出して訊いた。
「典当舖の主人曰く、その者の素性は存じぬとの事でありますが、簪を持参したのが初めてではなく、二・三年程前から、幾つか持参していたそうで御座居ます」
「………春琴は、白花なる者の正体を、どう考えておる?」
暫し彼を眺めてから、耀舜は尋ねる。
「……………」
春琴の脳裏には、玉花の顔が浮かんだ。しかし、その名を口にするのには憚られた。
彼のその様子を見、耀舜はひとつ息を吐き、「そうか」と、そう一言漏らす。
「そうか」
殿下は、どういう想いで、その言葉を仰せられたのであろうか。
冷気を含む夜風に吹かれながら、春琴は外廊下を進んでいた。
耀舜は何も語らなかったが、青尹皇太子妃の侍女が持つ簪は、あの日春琴が託された、玉花への贈り物なのだろう。
ならば、白花が玉花であろうと無かろうと、曾ての愛しき者からの心付けを、理由は何であれ、手放した事実には変わりはないのだ。
春琴は夜空を仰ぐ。
薄雲が掛かり、星は見られない。
吸い込まれそうになる程の暗天。
耀舜には報告しなかったが、昼間の出来事も彼の脳裏を掠める。
玉花大姐は今、何を眺め、何を想っているのか………………
高みへは、歯を食い縛り、血を吐く思いで一歩一歩と昇り、歳月も掛かるが、その高みから底辺へ転げ落ちるには、一日も掛からない。
「ふ………ふふ…………」
今が夜なのか昼なのかさえ、分からない。
もう幾日、夏飛の顔を見ていないのだろうか。
「ふふふ………ふふ…………」
丸で雲の上。
煩わしい事なぞ何もない。
『快』の感情で満ち溢れている今、何と愉快な気分であろう。
浮き世の柵から心が解き放たれ、自由になれた気がする。
そうなのだ、これが自由なのだ。心の儘に生きているという、そういう事なのだな。
けれど何故、心の奥底で破倫感を抱くのか。
「ふ………ふぅ…………」
玉花は、ぎらぎらとした瞳で、暗い空間を眺めている。
その硝子玉の様な瞳には、何も映らず、何の感情も持ち合わせてはいなかった。




