其の参
晩夏。
月夜楼切っての太夫、玉花は、楼の奥の部屋へ、人目を避ける様に入れられていた。
臨月が近いのだ。
玉花の側には、禿の風香だけであり、楼内の賑わいも微かにしか聴こえて来ない。
妊娠を知った周囲は当然、上を下への大騒ぎであった。
楼主としては、界隈一の高級妓女を孕ませた相手を捜し出し、身請けさせ、その「身請け」という名目で賠償金を踏んだくってやろうと血眼になるが、玉花は誰の名も口にしなかった。
誰もが思い浮かべる男、ダーコォは、数カ月前に寛裕茶房に姿を見せて以来、胡暗にも現れていない………
微睡みから醒めた玉花は、不安そうな表情で室内を見回した。
「大姐? どうされました?」
そんな彼女の様子に気付き、風香は心配そうに顔を覗き込む。
「風妹……。厭な夢を見たわ」
ふと息を吐き、玉花は云った。
風香は甲斐甲斐しく玉花の額の汗を拭い、立ち上がって出入口へ行くと、引き戸を細く開ける。
この部屋は、元は蒲団部屋であった為、窓が無い。それ故に室内の空気が淀んでしまうのだ。
風香がまた元の場所に戻ると、玉花はその小さな手を握った。
「ダーコォは、来たの?」
怯えた瞳の儘で、そう訊く。
「いいえ、大姐。大爺は来られてはおりません」
風香は頭を振る。
「そう。その方が良い」
玉花は安堵する様にそう返し、再び瞼を閉じた。
……春のあの日。
真っ直ぐに見詰めるダーコォの視線は、恐い程に真剣であった。
その瞳に囚われてしまいそうになり、玉花は、髪を撫でる彼の手を両手で握った。
「本気で私を身請けるつもり? 愚かな事だわ」
口の端を歪めて、玉花は嗤う。
「は? 玉花、その言葉は、本心からか?」
虚を衝かれ、ダーコォは信じられない想いで彼女見た。
「ええ、そうよ」
表情を変えずに玉花は返す。
「何故なんだ!?」
ダーコォは珍しく感情を露わにし、声を荒げた。
「…………」
玉花は無言で、ダーコォの手から手を放す。
だが、ダーコォが逆に玉花の手を取り、自身へとその身を引き寄せる。
窓枠の、ちょっとした縁に置かれていた盃のひとつが、その勢みで床に転げ落ちた。
「ッ!!」
はっと我に返り、ダーコォは玉花の両肩に手を置いて、躰を離す。
「……いや、お前の意志の強さは熟知している。子供染みた真似をした」
玉花から面を逸らし、ダーコォは独り言つ。
「そうね」
玉花は、転がった盃を拾いながら、そう云った。
そして、彼の横顔を見、
「ダーコォはまだ若いもの、私に縛られる事はないのよ」
そう言葉を続ける。
「縛られる? 縛られてなぞ、そんな風に想った事もねぇよ」
ダーコォは横目で玉花を見た。
「そう? それなら、良かったわ」
ふと笑う玉花。
盃を持つその手が、僅かに震えている。
と、その時、慌てた様子の跫音が聞こえて来、ふたりの居る個室の前で止まった。
「太夫、大爺! 火急の事故、御無礼を!」
「春琴で御座居ます! 恐れながら、急ぎ御戻りを!」
寛裕茶房の者の言葉の後を追う様に、春琴と名乗った者の切羽詰まった声。
戸が勢いよく開けられ、ダーコォは、茶房の者の後ろで跪いている者を見下ろした。
「春琴か、何事だ?」
「胡暗の外に車を待たせて御座居ます故、詳細は車中にて!」
春琴はそう捲し立て、ダーコォを急かす。
彼のその様子、何事かは分からないまでも、一大事なのだろう事は容易に把握出来る。
「…………」
ダーコォは振り返り、玉花を見た。
「構わず、お行きなさい」
玉花は彼の背を押す様に、そう云った。
その言動でダーコォは、表情を無くし無言の儘で春琴に付いて廊下を進んで行く。
何事が起きたのか、当然玉花も知らない。だが、これでもう彼とは見える事はないだろう。
それは、妓女の勘であろうか。
頬を伝う涙をその儘に、玉花は窓から外界へ視線を向けた。
彼女の手は自然と、自身の腹部に置かれていた…………
玉花の寝息を確認して、風香は水を汲む為に部屋を出た。
「風妹」
廊下を進んでいると、背後から声を掛けれ、振り返り見れば若い用人が薄ら笑いを浮かべながら立っている。
「太夫の加減はどうだ?」
「落ち着いております」
「孩子が産まれんのは、いつだっけか?」
「一週間以内だと、聞いております」
用人と言葉を交わしつつ、風香はじりじりと後退る。
彼女は、この妓楼の男達を嫌っていた。楼主にしろ、用人達にしろ、増してや妓女を買いに来る旦那衆はもっと嫌いである。
しかし、風香も貧しい土地の出身だ。現在、故郷の家族も自分自身も生かされているのは、そういう男達のお陰なのだという現実、それが一番厭だった。
「それよっか、孩子を産んだら、太夫はどうするんだろうなぁ」
にやにやとしながら、用人は云う。
風香はぎくりとし、用人の顔を見た。
「孩子を産んじまったら、なぁ、値打ちが下がるだろうしなぁ」
用人の下品な面構え、風香は耐えられなくなり、背を向け、足早にその場を離れた。
数えで十歳となる彼女だが、用人の言葉の意味を解せた。だから余計に厭な気分となったのだ。
価値の下がった妓女を置いておく程、甘い世界では無い。
身重となり、表に出なくなった玉花が、未だ月夜楼に身を置けているのは、玉花がこれまで、それこそ身を削って作った貯えがあったからである。
だがそれも、いつ迄持つだろうか。不安はそこである。
それでも、風香が玉花の禿として付いているのは、他の妓女よりも彼女が好きだからだ。
玉花は決して優しくはない。だが、嘘がない。そして、禿である風香を一人前の人間として扱って呉れるから、そこが好きなのである。
それから五日後、玉花は男児を出産した。
涼し気な顔立ちの赤子は、何処かダーコォを想わせ、誰もが確信するが、矢張り玉花は何も語らなかった。
晩夏に産まれた男児は『夏飛』と命名され、字は『詩雨』と付けられた。
とはいえ、赤子が誕生したと大々的に公表出来る訳もなく、夏飛は楼の奥でひっそりと育てられた。
産後約半月は、母である玉花の手で育てられたが、太夫として表に出る様になってからは、風香が主に養育係となる。
風香は弟の様に夏飛を可愛がり、夏飛もまた、風香によく懐いた。
そして、懸念されていた玉花太夫の名声は衰えず、「復帰」と聞くや否や、大方の御贔屓客が月夜楼に顔を見せ、玉花の立場も安泰である。
だが、予感していた様に、ダーコォは姿を現さず、胡暗でも見掛けた者は皆無だった。
時を同じくして、皇長子耀舜皇子が立太子したと報じられたが、今を生きるのが精一杯である市井の人々には、興味の薄い話題でしかなかった。