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愁い花  作者: 冷水房隆
2/87

其の参


 晩夏。

 月夜ユエイェ楼切っての太夫、玉花ユィホワは、楼の奥の部屋へ、人目を避ける様に入れられていた。

 臨月が近いのだ。

 玉花の側には、禿の風香フォンシャンだけであり、楼内の賑わいもかすかにしか聴こえて来ない。

 妊娠を知った周囲は当然、上を下への大騒ぎであった。

 楼主としては、界隈一の高級妓女を孕ませた相手を捜し出し、身請けさせ、その「身請け」という名目で賠償金を踏んだくってやろうと血眼ちまなこになるが、玉花は誰の名も口にしなかった。

 誰もが思い浮かべる男、ダーコォは、数カ月前に寛裕カンユゥ茶房に姿を見せて以来、胡暗ホゥアンにも現れていない………

 微睡まどろみから醒めた玉花は、不安そうな表情で室内を見回した。

 「大姐ダァジェ? どうされました?」

 そんな彼女の様子に気付き、風香は心配そうに顔を覗き込む。

 「風妹フォンメイ……。厭な夢を見たわ」

 ふと息を吐き、玉花は云った。

 風香は甲斐甲斐しく玉花の額の汗を拭い、立ち上がって出入口へ行くと、引き戸を細く開ける。

 この部屋は、元は蒲団部屋であった為、窓が無い。それ故に室内の空気が淀んでしまうのだ。

 風香がまた元の場所に戻ると、玉花はその小さな手を握った。

 「ダーコォは、来たの?」

 怯えた瞳の儘で、そう訊く。

 「いいえ、大姐。大爺ダァイエは来られてはおりません」

 風香はかぶりを振る。 

 「そう。その方が良い」

 玉花は安堵する様にそう返し、再び瞼を閉じた。


 ……春のあの日。

 真っ直ぐに見詰めるダーコォの視線は、恐い程に真剣であった。

 その瞳に囚われてしまいそうになり、玉花は、髪を撫でる彼の手を両手で握った。

 「本気で私を身請けるつもり? 愚かな事だわ」

 口の端を歪めて、玉花は嗤う。

 「は? 玉花、その言葉は、本心からか?」

 虚を衝かれ、ダーコォは信じられない想いで彼女見た。

 「ええ、そうよ」

 表情を変えずに玉花は返す。

 「何故なんだ!?」

 ダーコォは珍しく感情を露わにし、声を荒げた。

 「…………」

 玉花は無言で、ダーコォの手から手を放す。

 だが、ダーコォが逆に玉花の手を取り、自身へとその身を引き寄せる。

 窓枠の、ちょっとしたへりに置かれていた盃のひとつが、そのはずみで床に転げ落ちた。

 「ッ!!」

 はっと我に返り、ダーコォは玉花の両肩に手を置いて、躰を離す。

 「……いや、お前の意志の強さは熟知している。子供染みた真似をした」

 玉花から面を逸らし、ダーコォは独り言つ。

 「そうね」

 玉花は、転がった盃を拾いながら、そう云った。

 そして、彼の横顔を見、

 「ダーコォはまだ若いもの、私に縛られる事はないのよ」

 そう言葉を続ける。

 「縛られる? 縛られてなぞ、そんな風に想った事もねぇよ」

 ダーコォは横目で玉花を見た。

 「そう? それなら、良かったわ」

 ふと笑う玉花。

 盃を持つその手が、僅かに震えている。

 と、その時、慌てた様子の跫音が聞こえて来、ふたりの居る個室の前で止まった。

 「太夫、大爺! 火急の事故、御無礼を!」

 「春琴チュンチンで御座居ます! 恐れながら、急ぎ御戻りを!」

 寛裕茶房の者の言葉の後を追う様に、春琴と名乗った者の切羽詰まった声。

 戸が勢いよく開けられ、ダーコォは、茶房の者の後ろで跪いている者を見下ろした。

 「春琴か、何事だ?」

 「胡暗の外に車を待たせて御座居ます故、詳細は車中にて!」

 春琴はそう捲し立て、ダーコォを急かす。

 彼のその様子、何事かは分からないまでも、一大事なのだろう事は容易に把握出来る。

 「…………」

 ダーコォは振り返り、玉花を見た。

 「構わず、お行きなさい」

 玉花は彼の背を押す様に、そう云った。

 その言動でダーコォは、表情を無くし無言の儘で春琴に付いて廊下を進んで行く。

 何事が起きたのか、当然玉花も知らない。だが、これでもう彼とはまみえる事はないだろう。

 それは、妓女の勘であろうか。

 頬を伝う涙をその儘に、玉花は窓から外界へ視線を向けた。

 彼女の手は自然と、自身の腹部に置かれていた…………


 玉花の寝息を確認して、風香は水を汲む為に部屋を出た。

 「風妹」

 廊下を進んでいると、背後から声を掛けれ、振り返り見れば若い用人ようにんが薄ら笑いを浮かべながら立っている。

 「太夫の加減はどうだ?」

 「落ち着いております」

 「孩子がいしが産まれんのは、いつだっけか?」

 「一週間以内だと、聞いております」

 用人と言葉を交わしつつ、風香はじりじりと後退る。

 彼女は、この妓楼の男達を嫌っていた。楼主にしろ、用人達にしろ、増してや妓女を買いに来る旦那衆はもっと嫌いである。

 しかし、風香も貧しい土地の出身だ。現在いま、故郷の家族も自分自身も生かされているのは、そういう男達のお陰なのだという現実、それが一番厭だった。

 「それよっか、孩子を産んだら、太夫はどうするんだろうなぁ」

 にやにやとしながら、用人は云う。

 風香はぎくりとし、用人の顔を見た。

 「孩子を産んじまったら、なぁ、値打ちが下がるだろうしなぁ」

 用人の下品な面構え、風香は耐えられなくなり、背を向け、足早にその場を離れた。

 数えで十歳となる彼女だが、用人の言葉の意味を解せた。だから余計に厭な気分となったのだ。

 価値の下がった妓女を置いておく程、甘い世界では無い。

 身重となり、表に出なくなった玉花が、未だ月夜楼に身を置けているのは、玉花がこれまで、それこそ身を削って作った貯えがあったからである。

 だがそれも、いつ迄持つだろうか。不安はそこである。

 それでも、風香が玉花の禿として付いているのは、他の妓女よりも彼女が好きだからだ。

 玉花は決して優しくはない。だが、嘘がない。そして、禿である風香を一人前の人間として扱って呉れるから、そこが好きなのである。


 それから五日後、玉花は男児を出産した。

 涼し気な顔立ちの赤子は、何処かダーコォを想わせ、誰もが確信するが、矢張り玉花は何も語らなかった。

 晩夏に産まれた男児は『夏飛シアフェイ』と命名され、あざなは『詩雨シーユィ』と付けられた。

 とはいえ、赤子が誕生したと大々的に公表出来る訳もなく、夏飛は楼の奥でひっそりと育てられた。

 産後約半月は、母である玉花の手で育てられたが、太夫として表に出る様になってからは、風香が主に養育係となる。

 風香は弟の様に夏飛を可愛がり、夏飛もまた、風香によく懐いた。

 そして、懸念されていた玉花太夫の名声は衰えず、「復帰」と聞くや否や、大方の御贔屓客が月夜楼に顔を見せ、玉花の立場も安泰である。

 だが、予感していた様に、ダーコォは姿を現さず、胡暗でも見掛けた者は皆無だった。


 時を同じくして、皇長子耀舜ヤオシュン皇子が立太子したと報じられたが、今を生きるのが精一杯である市井の人々には、興味の薄い話題でしかなかった。


 

 

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