其の二十
夏飛を月夜楼、芙蓉へ預けた後、玉花は医師の林の紹介で、薬師の徐博の元に置かせて貰っていた。
給金は少ないが、住み込みである上に食費も掛からない為、最低限の生活費だけで済ませられている。
働かせて貰い一週間も経つと、百味箪笥に多く作られている小抽斗の何処に何が入っているのかも覚えた。無論、何と何を掛け合わせ、どの様な症状に効くのかまでは把握出来ないが、買い出しの役には立っている。
新たに、これまで拘わらずにいた世界に触れ、瞬く間に日々は過ぎて行き、徐博に云われるまで、一週間も経っている事に気付かない程であった。
「………小孩儿には知らせているのか?」
そんなある日、他人には関心のない徐博が、珍しくそう訊いた。
「いいえ。ですが、そろそろ文でも出そうかと、そう考えていた所です」
晒し布を巻いていた玉花は、つと顔を上げ、意外そうに彼を見ながら答えた。
「そうか。ならば、今日はもう遅いが故、明日にでも出しに行くが好い」
徐博はそう云った。
胡暗には臑に傷持つ様な理由有りの者が集まる事は、先にも記したが、その西1km程離れた地、安曇という町は、胡暗よりは増しではあるものの、矢張り理由有りの貧しい者達が集まって形成されていた。
仕事に溢れた男達が、昼日中から酒場に入り浸る姿も日常茶飯である。
そんな男達の中で、独り静かに盃を空けている、斉有素という男が居た。
常に苦虫を噛み潰した様な表情をしており、陰気な雰囲気の為か、彼に話し掛ける者は皆無に等しい。
「………おい、ありゃあ」
「何処の御内儀だ?」
「莫迦云え! 御立派な奥方が、こんな所来るもんか!」
「それにしても、良い女人だな」
通りを行く女性を見て、酒場の男達が騒ぐ。
斉有素も通りの女性へ視線を向け、途端に立ち上がった。
立ち上がった勢いで、椅子が後ろへ倒れるも、喧騒の中ではその音も目立たない。
女性を目で追って、斉有素は口元を歪めた。
文書を出す郵局は、花京にも二箇所在るが、住まわせて貰っている徐博の家からだと、安曇の郵局の方が近かった。
安曇の住人は、貧しくも逞しく生き、町全体が活気に満ちている。
その町を歩く玉花は、一般婦人同様、地味な縫腋袍に身を包んではいるが、洗練された立ち居振る舞いと目鼻立ちの整った容貌は、薄化粧であっても人目を惹いた。
本通りから折れ、路地に入った時、背後から声を掛けられた。
「何か、御用で御座居ましょうか?」
玉花は振り返り、声を掛けて来た中年の男を怪訝そうに見、そう訊く。
「あんた、あれだろう? 随分と地味な恰好をしてるけど、胡暗の太夫、玉花だろう」
男、斉有素は曇った様な声で云った。
玉花は顔色を変え、男の正体を知ろうと探る様に見るも、知り得なかった。
「何方の大爺でしょう?」
「忘れたのか?
否、それも無理はないだろう。俺が登楼したのは二・三度、親父に付いての事だからな」
「御父様、とは?」
「西方街の斉。と云えば、分かろう」
鼻を鳴らし、斉有素は答えた。
「っ!」
その言葉に玉花ははっとする。
それは、三年前の晩秋の日、奇しくも最後の客となった旦那。
「チ……斉大爺の御子息が、何故、この安曇に?」
震える声を悟られまいと、玉花は懸命に平静を装う。
「あんたの所為だ! あんたに入れ込んだ所為で、親父は二年前の春先に他界し、代々続いた店も経営不振となり、生計も立ち行かなくなったんだよっ!!」
斉有素は玉花に指を指し、怒鳴った。
往来の人々はその声に驚き、足を止め、遠巻きにふたりへ視線を向けた。
しかしふたりには、周囲が見えていない。
二年前の春先に亡くなったという事ならば、もしや、件の事が原因ではあるまいか? それが直接の原因ではないにしろ、少なからず影響はあったのやも知れぬ。
「……………」
玉花は蒼褪め、両手で顔を覆う。
その様子を見て、斉有素はほくそ笑んだ。
「あんた、責任を感じているのならよ、ちと融通して呉んないか」
斉有素はそっと玉花に近寄り、今度は静かにそう囁いた。




