其の十六
胡暗で起った火災は、玉花と夏飛の住む公寓を中心に、四棟が全焼、三棟が半焼した。
この火災により一名が死亡、複数人の重軽傷者を出した。
出火の原因は放火であり、死亡した者が鴉片(阿片)の売人の上高利貸しで、金銭問題の縺れに因って殺害され火を放たれたのだ。
その為、この死亡者に同情する者は皆無。それ処か、怨言さえ放つ始末である。
当然だ。
全焼の被害に遭った住人達は、住居は勿論、財産も総て失ったのだから。
……………鎮火したのは、明け方に近かった。
住居を失った者は、或いは早々に諦めて他に行く者、或いは幽霊の様に茫然と焼け跡を眺める者、或いは瓦礫の中を歩き回る者と多様である。
玉花もまた、今後の事を考える余裕もなく、元住居の向かいの石段に座り込んでいるだけだった。
夏飛は、そんな母の横で、大人しくしていた。
お腹が減ったとか、寝床に入りたいとか、ここから離れたいとか、当たり前の欲望も口にせず、只黙って母の側に居る。
「………大姐」
旭が昇った頃、そう声を掛けられて、漸く玉花の魂が戻り、我に返った。
顔を上げて見れば、王陸が目前に立ち、玉花を見下ろしている。
災難に遭い、憔悴しているだろう事は安易に想像は出来たものの、実際にその姿を目の当たりにすると、王陸の胸は締め付けられる程に痛かった。
辛そうに自分を見詰める彼を見て、玉花はふと笑む。
「何て顔をしているの、せっかくの美形が台無しよ」
「何を………」
「見世の方は、大事ない?」
玉花は王陸の言葉を遮り、そう問い掛けた。
「……はい、本通りまでは、火が廻って来なかったので」
ひとつ息を吐き、心を落ち着かせてから、王陸は答えた。
「それなら、良かったわ」
云いながら玉花は、膝枕で寝ている夏飛の頭を下ろし、立ち上がると夏飛を抱き上げる。
「その孩子はもしや、小雨ですか?」
王陸は初めて夏飛の存在に気付いたのか、或いは、その容姿がまるで女子の様であるのに驚いたのか、思わずそう訊いた。
「えぇ、そうよ。もう重くなってね」
微苦笑しながら玉花は返す。
「大姐、その様な幼子を連れて、これからどうされるのですか?」
「そうね………。住み込みの仕事を探すわ」
玉花は遠くを見詰め、何処か他人事の様に答えた。
「大姐の身を案じて参ったのですよ!? 己だけでなく、芙蓉姐姐も風香も、貴女の事を案じているというのに、何故に…………ッ!」
王陸は彼女の態度に腹を立て、思わず捲し立てるが、周囲の注目を浴びている事に気付き、我に返って言葉を切った。
そして、一息吐いてから、
「何故貴女は、そうも飄々として、弱さを見せて呉れないのですか」
今度は静かに、そう続けた。
「……………」
玉花は真顔で暫し彼を見て、ふと笑み、
「弱い私の姿を見たいだなんて、何とも無粋な事を云うのね」
そう返す。
王陸は、次に口を衝いて出る言葉を、呑み込んだ。
太夫の頃から玉花は、最悪の状況に陥ろうと、誰にも弱さを見せず、今迄突き進んで来たのだ。
「おや、起きたの?」
その言葉を耳にし、王陸は再び玉花へ視線を向ける。
玉花に抱かれている夏飛の顔色が、陽の加減か、心做し芳しくない様に見えた。
「大姐、今日は一先ず、宿を取りましたので案内致します。小雨の具合も宜しくない様に見受けられますので」
王陸は常時の無表情となり、そう云った。
彼の言葉に玉花も、腕の中の夏飛を見る。
自分独りならば、どうとでもなりはするが……………
暫し迷ったが、今回は快く、王陸の取り計らいを受けた。
宿に入り、部屋で母と子のふたり切りになると、玉花は漸く人心地が付けた。
途中の屋台で、王陸が買って呉れた肉饅頭と飲み物、夏飛は饅頭を半分程食べ、薬を服用すると、玉花に凭れて眠った。
玉花は、そんな夏飛の頭を撫でる。
心身共に疲れているのに、頭が冴えてしまっていた。
この宿は、本通りに面している。
窓から覗く景色は、二年前と変わらぬ懐かしさ。
月夜楼を出てから玉花は、本通りには近寄らなかった。
それが、こんな形で来る事となるとは、全く妙な事である。
とはいえ、人の優しさに甘える訳にはいかぬ。
自分の足で立って歩かなければ、そうでなければ、反対を押し切り、迷惑と心配を掛けてまで、自身で決めたこの人生、意味を為さないではないか。
………玉花は静かに瞼を閉じ、微睡み、そして泥の様に眠りに着いた。




