其の十四
玉花が月夜楼を出て二年。
名を本名の「白花」と改めると、近所の子達に書法を教えたり、得意の裁縫を活かして、ちょっとした仕立て物を引き受ける事で生計を立て、足りない分は衣裳や小物を売って凌いだ。
これまで、夏飛とふたり、どうにか腐らずにやって来られた。
しかしそれも限界を迎え様としていた。衣裳も小物も売り尽くしてしまい、手元に残っているのは、あの、南天の簪のみ。
玉花は、何度か手放そうとするも、どうしても出来なかった。
それは矢張り、未だ、心の奥底で燻るものがあるからだろうか…………
芙蓉と風香は湯屋の帰りや使いで出た際、週に二・三度は玉花と夏飛の様子を見に訪れていた。
芙蓉が懸念しているのは、玉花の飲酒と鴉片(阿片)の影響だ。
だが、見た限り、それ程悪く影響していない様で、安堵していた。
事実、この二年玉花は、飲酒はともかく鴉片を断っている。
無論そう易々とはいかず、時として無性に欲する事もあるが、環境の変化が功を奏したのか、楼に居た頃に比べたら辛抱出来た。
また、夏飛にも変化があった。
数えで四才になる夏飛は、男児というよりも、嫋やかな女児の様に育ち、彼を見た者は皆、女児だと信じ込む程だ。
それに関して玉花も敢えて否定しなかった。
その事に対して、芙蓉と風香は異を唱える。
「………大姐、それでは小雨が混乱をしてしまい、可哀相ではありませぬか」
「小雨」は夏飛の字、詩雨の愛称である。
「そう?」
玉花はころころと笑い、ゆっくりとした口調で返した。
「当然でしょう、小雨は男子です。男子は男子らしく育てませぬとなりませぬのに、女子と見られるなぞ、いくら四つであれ、考えられぬ事でありましょう」
芙蓉は身を乗り出し、子供に言い聞かせる様に説諭する。
「そうかも知れないわね。なれど、無理強いをさせている訳ではないのだから、良いではあるまいに」
気にせず玉花はそう返し、奥へ視線を向けた。
芙蓉もその方を見る。
そこでは、夏飛が風香を相手に、お手玉で遊んでいた。
その楽しそうな夏飛を見て、芙蓉は溜め息を吐き、それ以上は何も云わなかった。
大姐と小雨が息災であるのなら、これ以上は贅沢な事なのであろうな…………
そんなある日の朝。
いつもなら声を掛けずとも、勝手にひとりで起きて来る夏飛が、今朝はなかなか起きて来なかった。
「夏飛? お寝坊さんね」
玉花はそう声を掛けながら、寝床へ行く。
「!?」
夏飛の顔を覗き込み、ぎくりとした。
ぐったりとし、呼吸も荒い。
思わず抱き起こし、玉花は更に驚いた。
夏飛の躰が、燃える様に熱かったからだ。
直ぐ様夏飛を横たわせ、水を汲んで来て木綿の布を湿らせると、その額に乗せる。
苦しそうな我が子を前に、取り乱しそうになりながらも、玉花はどうにか理性を保とうと、その小さな手を握った。
「媽………」
苦しむ中、夏飛は母を求めて口を開き、虚ろな瞳を向ける。
あの事件以来、笑顔を失くし、母である玉花に懐こうとしなかった夏飛が、弱気になっている所為もあるだろうが、自分を求めて来た事に玉花は心を打たれた。
「暫し待っておれ」
玉花は夏飛の頭を撫で、そう云うと部屋を出て行った。
母が出て行った扉を夏飛は、朦朧とした中で見詰める………
玉花が助けを求めたのは、月夜楼のお抱え医であった林医師だ。
この二年間音沙汰のなかった玉花の突然の訪問に、当然林は驚いた。だが事情を聞いて薬籠を引っ掴むと、ふたりの住む公寓へ共に急いだ。
そして、夏飛の容態を一目見た林は、表情を強張らせる。
その林の様子を見、玉花の心臓がことりと鳴った。
林は手際良く夏飛の脈を取り、長筒状の聴診器で胸の音を聴く。
一通りの診察が終わるのを待ってから、玉花は病状を尋ねる。
「肺が炎症しておる。これは、一朝一夕で罹る病ではない、兆候があった筈だが、気付かなかったのかね」
林は厳しい表情でそう云った。
云われて思えば、近頃夏飛の食は細くなり、元気もなかった気がする。
「………いいえ、気付きませなんだ」
玉花は、自身の腑甲斐なさを責める様に、両手を強く握り合わせ、唇を嚙む。
「この病を治すには、高価な薬が必要となる」
ひとつ溜め息を吐き、林は云う。
「高価とは、如何程でありましょうか?」
玉花は覚悟して訊いた。
「最低価格でも、銀三両はするであろうな」
銀一両が大体、三万円の価値である。
「ッ!」
玉花は息を呑んだ。
「どうするね? 失礼ながら、銀三両を出せる様な暮らし振りには、到底見えぬが……」
林は哀れむ様に玉花を見る。
それに気付き、玉花は背筋を伸ばした。
元太夫としての矜持が、そうさせたのだ。
「白花殿、これは戯れ言だと受け取っても良いが……
世には、身寄りのない孩子を引き取り、病であればその面倒も看て呉れる寺院がある。もし、この孩子の事を想うのであれば、そうするのも一つの手かと思われるが」
玉花の様子を見て、再度林は口を開きそう伝えた。
「…………」
彼の云う寺院が存在する事は、玉花も知っていた。
この、薄情な母の側に居るよりは、その寺院へ託した方が、もしかしたら、夏飛は幸せになれるのやも知れぬ……
玉花は視線を落として、そう考える。
「………媽ぁ」
ふと、母を呼ぶ声が耳に入り、玉花は夏飛に視線を向けた。
視線を向けた先の我が子は、病魔に蝕まれ、それに打勝とうと生きていた。
空耳だったのかも知れない。だが、母を求めていたの姿は、本物だった。
次に脳裏に浮かんだのは、南天の簪。
「…………いいえ、林殿。そうするつもりは、ありませぬ」
再び林へ視線を向け、玉花ははっきりと云い放った。




