其の十三
紫微城内廷は、近頃騒がしい。
特に式部処と治部処の宦官と女官は、独楽鼠の如く走り回っていた。
皇太子殿下の妃選びが近いのだ。
立太子宣明の儀から約三年、それは遅過ぎである。
皇太子・耀舜自身、その話題からのらりくらりと避けていた事もあるが、国内外の情勢も影響していた。
昜華の東に位置する島国の和元は、鎖国されていた将時代以前には朝貢国として盛んに交流があった。
その後、将時代に途絶えたが、帝の世に戻り十年経った今、朝貢ではなく対等の立場で交流をする様になっていた。しかし、未だ開港されていない、本国から南東に位置し、首都・花京より直線で1840km程離れた孤島、そこへ和元の貨物船が誤って入港してしまった事に端を発し、血気盛んな一部の島民とひと悶着。両国で賠償問題にまで縺れたこの事変は、約一年半の交渉の後、無事に和解が成立となったのだ。
忙しくも、何処か楽しそうな内廷の雰囲気の中、春琴の心中は複雑であった。
玉花の年季が明ける事を、口差が無い若い官吏からでも聞いたのだろう。耀舜はわざわざ匠人に簪を作らせ、正体を伏せてでも、春琴を使いにやって贈る程なのだ、それなりの心は残っていよう。
なのに何故、渋っていたにも拘わらず妃を迎え様と思ったのか、そこが疑問である。
心当たりはひとつ、玉花からの文だ。
その文、当然春琴の目にも止まったが、内容までは流石に分からない。
「…………どうかしたのか?」
皇太子の執務室である儲秀宮にて、常時の様に耀舜の側に侍っている春琴に、彼は怪訝そうに問うた。
春琴は我に返り、「何も御座居ませぬ」と返す。
公書に目を通しながら、耀舜は口を開いた。
「妃選びの事を、考えているのだろう?」
その言葉に春琴はぎくりとして、思わず耀舜を見た。
「我も今年で二十三、先の事変もあるが、皇太子となって久しい今、遅過ぎである事は重々承知している」
耀舜は、机上の文書に視線を落とした儘、そう続けた。
「左様で御座居ましたか」
春琴は頷き、更に「玉花」の事を聞こうと口を開き掛けるも、結局は口を噤んでしまった。
耀舜の俯いた横顔が、それ以上踏み込んで来る事を拒んでいる様に、見えたからだ。
外は、いつの間にか雪模様。
しゃらしゃらと降る雪が、物悲しい。
「…………準備が着々と進んでおる様だな」
内廷に在る軍機処と外朝を結ぶ隆宗門、その門で春琴と遭遇した瑠偉武は、何の気なしにそう話し掛けた。
「四年振りの慶祝事で御座居ます故、皆忙しくも活き活きと働いております」
拱手礼を以て、春琴は返す。
「妃候補は、正二品以上の文官の御息女が五人立つそうだが、事実、正妃は決められておろう」
少々揶揄する様に、瑠偉武は云った。
「矢張り、瑠様には敵いませぬ」
春琴は苦笑し、
「羅吏部侍郎の御息女が、なられる様で御座居ます」
そっと耳打ちをする。
「羅様と申せば、大総官と繫がっていると、そう耳にしたぞ?」
彼の言葉を聞き、瑠偉武は眉間に皺を寄せた。
大総官は、太監や宦官の長である。そして、現大総官・李栄は皇帝の寵愛を受け、今では最高官職である軍機大臣と同等の発言力を持っていると云っても、決して過言ではない存在だ。
その大総官と繋がりのある者の息女が皇太子の正妃になるという事は、次期皇帝の世を牛耳る事であると暗示しており、それが懸念された。
「側室、貴妃以下も、その五名から選ばるるのでしょうか?」
春琴はぽつりと、独り言の様にそう訊いた。
「もしやそれは、彼の太夫の事を申しておるのか?」
瑠偉武は逆に訊く。
「否。そうでは御座居ませぬ………」
歯切れも悪く、春琴は返した。
「…………」
瑠偉武は、補服の広い袖口の中で腕を組み、そんな春琴を眺める。
と、隆宗門の向こう、外朝側を人が通る気配。
近付いて来るのは若い官吏ふたり、周囲には他に人気がないのか、口も軽く喋り合っている。
「宮中で何と礼節のない」
春琴は渋い顔をした。
しかし次の瞬間、さっと顔色を変える。
彼らの話す言葉の中に、「元太夫」「年季明け」そして、「孩子」の単語があり、それが耳に届いたからだ。
彼らは門の前まで来て、初めてふたりの存在に気付くと、慌てて拱手礼をして足早にこの場を離れて行った。
「あの者達が云っていた事は、誠か?」
瑠偉武も顔色を変え、官吏達の後ろ姿を見詰めながらに、そう訊いた。
春琴は溜め息を吐き、
「確かに、月夜楼でその噂は耳に致しました。ですが、御本人は否定も肯定もされませぬ故、何とも………」
そう答え、当時の事を想い返す。
…………玉花を追って大庁を出た春琴を、王陸もまた追い、呼び止めた。
春琴は振り返り、彼を見る。
恐い程に真剣な眼差しで、王陸は春琴を捉えていた。
「何かな?」
「後生です。ダーコォ様には御子の有無を、どうか伝えずに願います」
「それは、何故に?」
春琴は怪訝そうに聞き返す。
「玉花大姐が頑に、御相手の名を伏せている今は、何も訊かず、詮索もなさらず、そっとしておいて下さいませ!」
王陸は拝跪し、そう懇願するのであった。




