其の十一
雪梨新太夫の祝宴は、大庁と呼ばれる大広間で行われた。
大庁には既に御贔屓の旦那達が集まり、雪梨の登場を今か今かと待ち侘びている。
その旦那衆の相手を、御披露目行列に参列した妓女達が務めた。
祝宴は二日間、月夜楼を貸し切りとして行われるが、門扉は開け放たれており、縁の商人や酒屋等も出入り出来た。
そして、満を持して主役の登場だ。
場は大いに盛り上がった。
だが、雪梨に伴われて玉花が姿を現すと、空気が一変する。
玉花と雪梨の関係は、楼内は去る事ながら、一部少数の旦那の知る所でもあったが為、その反応は当然だ。
大庁には、芸妓として駆り出された芙蓉の姿もあり、玉花の出現を訝しむ。
否、これは、雪梨大姐の差し金か………
髪を両把頭に結い上げ、簪等の髪飾りも煌びやかでいて袍も豪華である雪梨、その一方で玉花は、まるで寡婦の如くに地味だ。
それを見れば、玉花が雪梨の引き立て役である事は、誰の目にも一目瞭然である。
芙蓉が疑心を抱くのも当然だ。
「…………これはこれは、姐太夫の玉花をも拝見出来るとは」
新太夫が上座、元太夫が下座に着くのを見て、ふたりの関係を知らぬ旦那のひとりが、場違いにも朗らかにそう云い喜んだ。
その言葉で、逆に場の空気は軽くなり、時が再び流れ始める。
「雪梨大姐、御祝い申し上げます!」
そして、一際大きい声が大庁に響き渡り、皆その声の主を見た。
芙蓉だ。
彼女は規則正しい姿勢で跪き、雪梨を敬う。
それに倣い、一同も祝辞を述べた。
改めて、祝宴の始まりである。
その中で、玉花は小さく笑い、跪いた儘の芙蓉を一瞥した。
誠に、蝶草大姐を見ている様だわ。
王陸が廊下を進んでいると、背後から声を掛けられた。
振り返り見ると、地味な紺色の綿入れを着た、三十代前半であろう青年が、彼に微笑み掛けている。
「はい、何か御用でしょうか?」
王陸は、雪梨の馴染みだと思い込み、まじまじとその青年を見るが、楼の客として見た事のない顔に、正直戸惑った。
それに、何用かで声を掛けるにしても、用人が幾人も廊下を行き来しているのだから、明らかに用人ではない王陸に声を掛けるとは。
「!?」
そう怪訝に青年を見詰めていたが、王陸はふと気付く。
否、確かに、何処かで見た事がある。
「私は、春琴と申す者。二年程前に、この月夜楼より寛裕茶房へ案内して呉れたのは、君かと、そう記憶しているが、違ったかな?」
彼が気付いたのを見て取り、青年春琴は笑みを向けた儘、そう云った。
「あ、これは………」
青年がダーコォの御内の者だと思い出し、王陸は周囲を気にして言葉を濁しつつ、拱手の礼をする。
「そう畏まられては、私が困る」
春琴は苦笑をし、彼の礼を解いた。
「それで、あの、何用でございましょう?」
ダーコォという人物に余り良い印象を持っていない為か、王陸は怪しみ、改めて訊く。
「本日こちらへ訪れたのは、玉花太夫の年季が明けると聞き及び、小爺から祝賀の品を御預かり致し、持参した次第にて」
春琴の言葉に、王陸は顔を顰める。
「しかし、訪れて驚いた。行列が、玉花太夫てはなく、新太夫の御披露目とは………楼主殿も、何もこの日にせずとも宜しかろうに」
「皆、玉花大姐を蔑ろにし過ぎです」
王陸は珍しく感情を露わに、そう吐き捨てる様に云った。
「…………君は、玉花太夫を慕っているのだな」
暫し彼のその様子を見、春琴は穏やかに笑う。
王陸は我に返り、かっと顔を赤らめた。
「春大爺、大姐にお会いになられるのでしたら、宴席へ案内致します」
自身の心内を誤魔化す様に王陸はそう云い、有無を云わさず、先立って大庁へ歩みを進めた。
大庁の舞台では、京劇の役者が舞い、宴を盛り上げていた。
舞台を観賞している玉花へ、雪梨が上座から下りて来、
「大姐、一献どうぞ」
そう云いながら、徳利を傾ける。
彼女のにこやかさに、玉花も微笑み返す。
「今宵は其方が花ぞ、持て成し役は他の者に委ねられよ」
その言葉に雪梨は、心外そうな顔をした。
「私は只、姐太夫を敬い、せめて、一献捧げようとしているのです」
彼女はそう云ってから、意味有り気ににやりと嗤い、玉花の耳元へ唇を近付けると、
「あぁ、大姐は今、御酒を断たれておりましたか?」
囁く。
玉花は、そんな雪梨を横目で見た。
「詩雨小爺から笑顔を奪ったのですもの、それも当たり前ですわね」
構わず彼女は言葉を続ける。
はっとして、玉花は正面から雪梨を見る。
「これこれ、姉妹太夫同士、何を戯れておる」
近くに座している旦那が、ふたりのその様子に気付いて声を掛けた。
「催老大爺、何もありませぬ。
それよりも、どうぞ、一献差し上げたいわ」
玉花は笑顔を旦那に向け、徳利を取る。
「おお、姐太夫からの酌とは、勿体無い限り」
催は破顔して、嬉しそうに盃を手にした。
「まぁ、妬けてしまいますわ」
雪梨はそう云って催の袖を引き、自身の方へ寄せると、撓垂れ掛かる。
「なれど老大爺、知っていて? 少なくとも二年間、大姐は老大爺達を欺いておいでよ?」
「何と? 欺いておると?」
雪梨の言葉に、催は唖然として玉花を見た。
だが、玉花は表情を崩さず。
「大姐には、楼主様の反対を押し切り産んだ、童がいますのよ」
素早く周囲を見回し、雪梨は声を張り、そう明かした。
楽隊の鳴り物がある中でも、彼女の声は周囲の者達の耳に届き、響めきが波紋の様に広がり、徐々に大庁全体を包み込む。
驚き、戸惑い、困惑、不快感。
ここに集まる者達の視線を受ける。
場の雰囲気はがらりと変わり、重苦しくなった事に、雪梨は満足そうに唇を歪めて嗤う。




