其の弐
胡暗は周囲を堀でかこまれており、正門を出て直ぐに白蟒蛇河が流れいる為、見方に依っては陸の孤島だ。それ故、昔から妓女の逃亡意欲を削ぐ効果としても一役買っていた。
石橋を渡った西詰めに、地味な闕腋袍を着用している男が独り居、ダーコォの姿に気付くと、近寄り来て拱手の礼をする。
「また供も御付けにならずに、春琴殿が案じておられました」
男は、苦り切った顔付きで、そう諌める。
「捨置け、瑠偉武」
ダーコォはからりと笑い、瑠偉武の左肩に右肘を乗せた。
「それ程迄に御執心なられるのであれば、一層の事、宮妓に迎えられては如何でしょう?」
肩に肘を乗せられても厭な顔をせず、瑠偉武はそう進言をする。
その言葉、ダーコォは無表情になり、瑠偉武の肩を解放すると、静かに歩き出す。
瑠偉武はそれ以上何も云わず、彼の後に付いて歩みを進めた。
………玉花と出逢ったのは、梅の蕾も綻び、春めいて来た時期。
初めて見た時から、ダーコォは玉花の何とも云われぬ艶麗さに魅了された。
「妓女なんて、男人に春を売るだけの、只の卑しい女人」だと、始めこそは軽んじ侮っていたが、誰の目でも無く、自分の目で実際見て、言葉を交わし、触れ合ってみれば、その教養の高さに驚き、立ち居振る舞いの典雅さに心が震えた。
流石は『太夫』だといえよう。
そして玉花は、時には海の様に優しく包み込み、山の様に厳しく素っ気無いかと思えば、風の様に甘えた。
その総てが堪らない………
相思相愛のふたり。
だが、今の状況なら、この関係はそう長くは続かないであろう事も、ふたりは承知している。
そしてそれは、思いも依らぬ形で、考えているよりも早く、訪れる事となるのである。
………また、春が来た。
改革後、帝政となって十年。
玉花とダーコォが出逢って、一年が経った。
玉花は数えで二十七歳となるが、それでも人気は衰えず、胡暗切っての太夫の座は揺るぎない。
けれど、玉花の気分は優れなかった。
この二月、ツキノモノが来ていないのだ。
もしや、子が宿ったのか………
それに気付くと、女としては誇らしく想う反面、気持ちが沈んだ。
子の父親はきっと、ダーコォであろう。という確信はあった。しかし、仮に違うとしたとて、妊娠の事実をダーコォには云うまい。云えば強引にでも身請けをするだろうから、故に、絶対に悟られてはなるまい。
そして、誰が何と云おうとも、この子を産む。そう固く決意した。
「………大姐」
と、戸の外から声が掛かった。
「お入り」
玉花の応答に戸は静かに開けられ、まだ幼い禿が入って来、
「張老大爺がお見えになりました」
軽く膝を折る万福の礼をして、そう告げる。
「分かったわ。房間は?」
玉花は頷いてから、部屋を訊いた。
「いつもの房間です」
禿は返し、部屋を出ようとするのを、玉花は呼び止めた。
「風妹、ダーコォへ文を出して頂戴。近々会いたいと、都合の好い日時を知らせて欲しい、と」
玉花は笑みを見せ、そう云った。
風妹、妓女名を風香という禿は、太夫のその言葉を不思議がり、彼女を見る。
「どうかして?」
「大姐は、大爺の事を好いておられるのに、どうして、身請けを断ったのでしょうか?」
おずおずと風香は訊いた。
「大爺」とは、ダーコォの事だ。
幼い禿の言葉に、玉花はころころと笑う。
「好いておるからだ」
その返答に対して、風香はきょとんとするばかり。
「解さなくとも好い好い。今は分からぬとも、大人になれば、厭でも分かるわ、風香」
そう云いながら玉花は立ち上がり、返す言葉を探している風香の横を、するりと擦り抜けて部屋を出た。
四日後。
胡暗で最も大きい茶館、寛裕茶房の個室に、玉花はダーコォと居た。
「………玉花と月夜楼の外で会うなぞ、初めてだな。どういう風の吹き回しだ?」
「たまには、ダーコォと忍び逢ってみたくなったのよ」
玉花はふふと笑いそう云うと、彼の盃に酒を注ぐ。
寛裕茶房は茶以外に酒も提供しており、料理屋並の食事も出来た。また、個室は温突造りである為、男女の逢瀬には重宝されている。
「まさか、玉花と忍び逢いをするとはな」
にやりとし、ダーコォは云う。
「今宵の約束は貴方のみ、ゆるりとしましょう」
玉花は云って、ダーコォに撓垂れ掛かる。
まだ酒に口を付けたばかりなのに、玉花がこうも甘えて来るのは珍しく、ダーコォは面妖に思った。
「お前を貸し切るのも、初めてだ」
ダーコォはそう云いながら、玉花の頬を撫でる。
彼女は擽ったそうに、瞼を閉じた。
暫くふたりは躰を寄せ合い、言葉もなく、只互いの息遣いを感じていた。
春とは名ばかりで、夜はまだまだ身に沁みるから、相手の肌の暖かさが堪らなく心地好い。
「……なぁ、玉花。矢張り、身請けをさせて呉れないか」
どれ程時が流れたのか、ぽつりとダーコォが口を開き、そう云った。
彼の腕の中で玉花はその言葉を聞き、何も云わず、するりと腕の中から抜け、円窓へ寄って行った。
細く開けた窓から、外界の喧騒を躰に感じ、ほっと現実に引き戻された。
「いいえ」
窓枠に身を凭せ、外界を眺めつつ、玉花はそう返答した。
その瞳は、揺るぎない意志の強さを物語る様に、輝いて見えた。
ダーコォは苦笑する。
まったく、頑固だな………
そして、盃を空け、徳利とふたつの盃を持ち、玉花の側へ寄る。
「その理由が欲しい」
盃のひとつを玉花に渡し、涼し気な視線を向けて、彼は訊く。
「そうね……
例え飼い馴らされていおうとも、もう、籠の中は懲り懲りなのよ」
玉花は盃を受け取ると、少し笑み、そう返した。
「ふ、俺がそうするとでも?」
ダーコォは微笑し、玉花の長い髪の束を手に取ると、愛おしそうに撫で擦る。
玉花の胸がぞくりと騒いだ。
今、ダーコォと居る時間を手放したくないと、この儘、彼と何処か遠くへ逃げてしまおうかと、そんな事を想ってしまう。